なんだろうブログの基本姿勢

6月はじめから開始したこのブログも、記事数がほぼ50にもなりました。ブログの骨格はおおよそできたと思います。そこでこの機会に、ブログの主張することを簡単にまとめておこうと思います。それは実に簡単なことなのですが、一方でほとんど誰も明確には認識していない、日本のそして世界の未来にとって、大切な基本となります。それは一言で言えば、次の一文で表すことが出来ます。
化石燃料社会を脱し、自然エネルギー未来社会へ入る。

化石燃料社会を脱し、自然エネルギー社会に入る

今回コロナ禍で皆不安に陥っています。また非常に危機的な状況でもあります。しかし私はあえてこの危機はまだ良かった、これを転じて福とすれば良い、と書かせてもらいます。
このように書くと何を不謹慎なとお怒りになる人もあるでしょう。しかし是非この記事を一読して下さい。私があえてそのように書く理由がお分かりでしょう。

私がエネルギー問題に関与するまでの経緯


私は物理学者です。研究分野は原子核物理学です。30代終盤まで、研究に没頭していました。30代の終わる頃、法政大学教養部に職を得て、文系学生に物理学を中心とした、自然科学の基礎教育を行うことを始めました。もちろん学生は物理と聞いただけで身構えます。そして受講したがりません。それでも相対性理論や「原子から宇宙まで」という科目名の工夫、など同僚の教員と共に、改革をしていった結果、これらの授業は結構人気の科目となりました。原子から宇宙までの名の通り、物理学は自然現象を広く説明する科目なのです。
その中でエネルギーの概念が文系学生にも現代では必須であると考えて、エネルギーについて文系学生にも、文系の一般人にも大局的に解るような本を書いているとき、3.11を迎えました。その時の混乱は今でも忘れられません。
この本を出版するときにも思ったのですが、社会的なエネルギー問題を、実際のエネルギー消費をも分析しながら、物理学者が考えた本は皆無である状態でした。実際物理学者がエネルギーを一般的に解説した本は、私も講義の参考の為に結構読んだのですが、それらの本に最終エネルギー消費とか、一次エネルギー供給とかいった概念を説明している本は皆無でした。これらの概念は実社会でのエネルギー消費を理解するには、必要不可欠なのですが。
一方これらの概念を知っている専門家に、物理学者は一人もいないことを、エネルギー関係の学会に所属させてもらって知りました。物理学者は社会的なエネルギー問題について、関与することはなかったのです。原発とか限られた問題を除いて。しかし原発だけでエネルギー問題を総括的に考えることは明らかに不可能です。エネルギー源としての原発を相対化して考えるには、エネルギー供給と消費の実際的な把握が必要となります。

一次エネルギーには何があるか?

一物理学者として社会的なエネルギー問題を考え、皆様にそれを解説するというのが私の出発点です。これからその解説に入りますが、最初にたった今言及した一次エネルギーについて述べたいと思います。
この記事ではさまざまな事を結論だけ述べます。その結論を導くための議論あるいは証明は、先に述べた拙著をご覧下さい。あるいはこのブログの他の記事で解説していきます。
一次エネルギーについても結論だけ書きます。一次エネルギーとは簡単に言えば、真のエネルギー源のことですが、一次エネルギーには、化石燃料・核燃料・自然エネルギーの三種類しかないのです。電気や水素は一次エネルギーではありません。これは一次エネルギー供給や最終エネルギー消費の意味をきちんと理解し、かつ熟考するならば、物理学者にとっては常識の部類に入ります。未知の一次エネルギーがあるなど言ったとしたら、その人の学位が疑われます。
一方社会的なエネルギー問題を論じる人達が、ほとんど皆間違っているポイントがここにあります。物理学者とは違って、彼らの多くが「次世代のエネルギー」についての期待を述べますが、この期待をきちんと整理すれば、次世代の一次エネルギーが見つかることを期待することになり、この期待を持つのは、エネルギー保存則という物理の基本法則を理解していない証拠なのです。社会的なエネルギー問題を考える人に物理学者が皆無である欠点が、例えばここに現れます。繰り返しますが化石燃料・核燃料・自然エネルギー以外の一次エネルギーはありえません。
物理学者は社会的なエネルギーを総体的に考えたことがない、一方社会的なエネルギー論者は、物理学の基礎も理解していないことになります。

このような状態で社会的なエネルギー問題を考えることが出来た私は、その意味で非常に幸運でした。物理学者としての誇りを持って、文系の学生に物理学を教えることを、30年もの間大学からもらう給料の主たる理由に出来たのですから。その延長で社会的なエネルギー問題を考えることができたのです。こういう作業は単なる知識の受け売りでは自信をもってやれません。もちろん大学の構成員のほとんどは、それを重要であるとは認めず、教養教育の意味が議論される場では(こういう議論がなされるときには必要ないという結論を出したい意図が必ず潜んでいるのですが)、絶えずこれが必要であると言い続けなければならなかったのですが。
でも一方でそれを熱心に応援して下さる方もいらっしゃいました。学とは何か、その社会的な役割とは、という問題で基本を理解して下さる人達です。それは先輩・同僚・後輩教員にも、事務職員にも、学外の方にもおられました。
そしてもちろん学生達。文系の学生にも、物理の面白さを解ってもらいたいと始めた30年以上前の未熟な私を、初期の頃から「あ、そうか」みたいな納得した顔で、大講義室の前からも中程からも聞いてくれた学生。そのような学生が段々増えていくうれしさは、本当にやりがいがある仕事でした。少人数の受講生でも、毎回一生懸命聞いてくれた学生も長い間に何人もいました。そういう学生達に私は育てられたのだと思います。心からお礼申し上げます。そしてそのような土壌を許す法政大学を、今でも誇りに思っています。
そしてその結果として、物理学者が基本から考えた、エネルギー問題についての基本的解決策がここにあるのだと、私は自信を持って言うことが出来ます

現代社会(日本)は化石燃料社会である。

現代社会が多量の化石燃料に支えられていることは皆さんご存じでしょう。でもどれだけの量が化石燃料からかということまで、知っている人はほとんどいないと思います。それについてはこのブログで折に触れ紹介したいと思います。
いずれにせよ現代社会が化石燃料社会であることは、皆さん納得されると思います。問題は化石燃料は有限であるということです。そして様々な形で環境破壊をするということも大問題になりつつあります。今回のコロナ禍も現代化石燃料社会が生み出した環境破壊の一つです。
すぐに解るように、パンデミックが今回起こったのは、がんがん飛んでいる飛行機のなせる技です。前回スペイン風邪というパンデミックが起きたのは、第一次大戦下であるという、言わば非常時だからでした。戦時であるから、非衛生的な環境で世界的にかつ大量に兵士達が移動する事、また戦時で情報が管理されていたこと、この二つがパンデミックを引き起こしました。100年経って社会が変わった現代には、平時でもパンデミックが起こるということを、世界に否応なしに知らしめたのが今回のコロナ禍です。

自然エネルギーでは、現代社会(日本)は支えられない

改めて確認しますが、エネルギーは物理学上の概念であり、人がエネルギーを利用するとき、様々な現象の為に利用するわけですが、その現象はすべて物理学の考察対象になります。したがってエネルギー消費を理解するには、簡単な物理学上の解析が必要となります。
3.11以来続けてきた作業の中で、エネルギー消費の実態を知り、またその物理学的な背景を調べるにつけ、段々浮かび上がってきた問題がありました。
それはこういうことです。
一次エネルギー(エネルギー源)が化石燃料・核燃料・自然エネルギーしかないことは、先に述べたとおりです。化石燃料は有限であり、また核燃料が使い物にならない以上(核燃料が実際役に立っていないことは、エネルギー消費の実態を調べれば解ります)、将来にも頼れるのは自然エネルギーだけです。
しかし問題は現代社会を、特に日本の現代社会を、自然エネルギーが支えることは出来ないと、調べれば調べるほど思い知るのです。特に問題なのは大都市の消費電力の集中した大きさと、自動車の消費エネルギーの大きさです。どちらも現代社会(日本)を成り立たせている大黒柱とも言えるものでしょう。これだけでも、現代社会を自然エネルギーで支えることは出来ないことの重みを感じ取ってもらえたらと思います。
これもこのブログの他の記事で紹介していきます。

誤解していただかないようお断りしますが、自然エネルギーが少ないと言っているわけではありません。化石燃料が使えないとすれば、産業革命以前の惨めな社会に戻るのだと言っているわけでは全くありません
それどころか、大部分の自然エネルギーの元になる太陽エネルギーは非常に大きいことがすぐ解ります。一年に地球に降り注ぐ太陽エネルギーの量は、同じ一年に全人類が消費する化石燃料のエネルギー量の一万倍以上あるのです。これを少ないと言えば、太陽神-天照大神から罰が下されるでしょう。でも一方不自然な自然エネルギー以外のエネルギーたる化石燃料が、地球に降り注ぐ太陽エネルギーの0.01%にもなりつつある状態は憂う必要があります。それだけ太陽の恵みは有難いのです
ただし少し抽象的になりますが、端的に申し上げましょう。化石燃料は集中し、密を作り出すエネルギーであるのに対し、自然エネルギーは広大に広がるが故に疎であり、集中には適さないのです。自然エネルギーに支えられる社会はありうるが、それは現代社会のように大都市集中型社会ではなく、中小規模の都市が点在し分散する、地域分散型社会なのです。

そのような結論に数年前から達し、そのように多くの人に伝える努力をしてきました。しかし問題はそう簡単ではありません。他ならぬ現代日本社会が、それを聞きたくない構造にできあがっているのです。

安倍政権とは何だったのか?

今日安倍首相が辞任を発表するそうです。歴代最長記録を達成するとほぼ同時に辞任とは皮肉な巡り合わせですが、安倍長期政権の意味を問う作業がしばらく続きそうです。
私自身の見解は次のようです。戦後レジームからの脱却を旗印にした安倍さんが、あるいはそれを支えた社会が、実は一番戦後レジームを引きずっていたと。特に戦後経済成長を引きずり続けたのが安倍さんなのではないか?

高度成長を引きずり続けた安倍首相

それを象徴するのが東京オリンピックです。半世紀以上前の東京オリンピックは、戦後の成功神話高度経済成長を象徴するものでした。そのころ都会の人口が郡部の人口を上回り始めました。それ以前は日本はむしろ農業国だったのです。郡部の人口が都市部の人口より多かったのですから。決定的な大都市集中は、高度成長期に始まったのです
高度成長の夢を捨てきれない安倍さんと、その元で生活する日本人は、更なる成長を夢見ました。それまでの基本的枠組みを大きく変えることなしに、言い換えれば戦後レジームを引きずったままで。アベノミクスは見方に拠れば成功したかに見えました。しかしコロナという環境破壊が、一気にその成果を崩してしまいました。歴史的に見ればトータルにはアベノミクスは失敗だったと考える必要があります。そして何故失敗したのか、それは皮肉にも戦後レジームに固執したからに他なりません。戦後レジームからの脱却の深い意味をお考えになれば良かったのに。

科学的な思考を拒む言葉の軽さ

やめる政治家の悪口は言いたくありませんが、安倍さんの言葉はすべて軽くしか感じられませんでした。彼が胸を張っていう言葉は、いつも大きく取り上げられましたが、その科学的根拠を少しでも考えると、全く根拠がないものでした。近くはコロナ第一波収束の際の「日本モデル」、古くはオリンピック招致時の「放射線からの安全宣言」。少しの科学的思考を持ってみれば、全くの意味がない言葉の軽さしか見えませんでした。
しかしそれは日本社会全体(与野党含めた政治家、評論家、マスコミ、そして国民)の問題でした。エネルギー関連でそれを見てみましょう。

CO2削減

環境問題と言えば、短絡的にCO2削減という発想が、特に21世紀に入ってからは当たり前になりました。クールビズなどそれに絡んだ運動など、環境派と言われる人達の運動は大きく取り上げられてきました。しかし効果はどれくらい上がったかを調べた人はどれだけいるのでしょうか?
日本ではCO2削減はここ30年全く行われていなかったことがデータで解ります。それもこのブログで紹介しています。また一方欧米では大なり小なり過去のデータからは削減されていることが解ります。日本ではこのようなデータ無視が実態なのですが、誰もそれを気にも留めていません。
>>一人当たりのCO2排出量の推移の記事を見る

エネルギーと言えば、電気という発想

日本ではエネルギーと言えば電気という発想がまかり通っています。これもデータを見れば明らかなのですが、一番多く消費されているのは電気ではなく、石油から精製されたガソリンなど、石油製品と呼ばれているものです。
同じ短絡的発想に自然エネルギーがあります。自然エネルギーをもっと利用しましょうと、多くの人が発想するのですが、必ず電気に変える発電を発想します。一方ドイツなど自然エネルギー利用が進んでいることは広く知られているのですが、ドイツでの電力消費の割合は、日本に比べてずっと低く、自然エネルギーをわざわざ電気に変えていないことが多いのです。

このように基本から科学的に物事を考えない風潮が、長期安倍政権を支えたとも言えます。これはおやめになる安倍さんだけの責任ではありません。例えば自民党外で首相を狙っているといわれるあの方は、これよりもっと酷いと思いますよ。この潮流は何としても止めなければなりません。

現代日本をこのままにすればどうなるか?

仮にこのままの形で日本を続けたらどうなるでしょう?

人は食料が必要です。そして火を使うようになった昔から、燃料を必要としてきました。人は自分の体内でエネルギーを消費するだけではなく、外部でエネルギーを消費する唯一の生命です。
藁や枯れ葉それに薪など燃すことは、人が最初に覚えたエネルギー消費です。文字が出来る以前の古代から、人はこのようなエネルギー源を使ってきました。これは自然エネルギーです。バイオマスと呼ばれる括りになります。その後人は文字を発明し、日々の生活や事件それに考え方を残すようになりました。文明が進んできました。そして更に人は多様な自然エネルギーを使うようになりました。水車は水力、風車は風力、また帆船も風力です。バイオマス、水力、風力は現代でも重要な自然エネルギーです。また温泉も地熱という自然エネルギーを利用しています。
三世紀ほど前、西洋で重要な改革(革命)がおきました。産業革命です。産業革命は急速に進み、薪の代わりに石炭を使うようになりました。それ以来人類のエネルギー消費は急増します。石炭が使われ、石油が使われ、天然ガスが使われるようになりました。これで化石燃料はすべての種類がそろいました。現代は化石燃料消費のピークにあります。

化石燃料の有限性が原因の想像を絶する危機

化石燃料は有限です。そして化石燃料以外、実質的に自然エネルギーしかないのです。何か他のエネルギーがあるかも知れないというのは、高度成長がまだ出来るかも知れないと、基本的思考をしない(させない)ある種の人達の(それは現代日本人99%かもしれません)恐らく意図もしない悪巧みの結果です。死に至る民主主義とでも名付けましょうか? その結果何が起きるか考えて見ましょう。

食費とエネルギー費が同程度になる危機

初歩的な経済学で考えましょう。物が品不足になったとき、何が起きるでしょう。今回でもマスクが品不足になったとき何が起きたでしょう。
当然価格が高騰しますね。一時マスクが品不足になり、あっても普段の10倍ほどは高価になりました。安倍さんは側近の言うことに従って、マスクを調達して国民に二枚ずつ配給をしました。安倍政権の成果の一つです。
化石燃料は有限ですから、そのうち品不足になります。エネルギー価格が10倍ほどに跳ね上がるとどうなるでしょうか?
食料品は再生産可能です。人類始まってかなりたって、人類は農業を覚えました。人類にとって決定的な進歩でした。それまでその辺にある貝や木の実など、自然にあるものを採取していただけです。それを人の手で再生することを覚えたのですから。この後人は文字を発明し、記録したり伝え合ったりすることを覚えました。継承伝達できる文化創造が始まったのです。
そのおかげで、人が決定的な間違いを犯さない限り、食料を長期にわたって手に入れられない状態は脱しました。経済学が生まれ、人の生活を安定させる工夫が、様々な形で生まれました。
話を戻しましょう。食料は農業のおかげで再生できます。そのおかげで食料価格は比較的安定しています。
一方のエネルギー価格はどうでしょう。化石燃料は有限です。したがってどんどん品薄になってきます。それでも現代社会は化石燃料を必要とします。何故ならすでに説明したように、現代社会は自然エネルギーによっては、支えることが出来ないからです。
安倍政権的な社会の仕組みになれた人達は、基本に戻って物事を考えないですから、自然エネルギーで社会を支えられると信じて、データさえも調べません。社会全体がそれでよしとしています。
だって庶民には基本的なことから考える力もなければ余裕もないですから。まるでマリーアントワネットみたいに、食料がないって? それならお菓子を食べれば良いじゃない、って考える人達ばかりになってしまっていますから。一億総アントワネット時代ですね。化石燃料が無ければ、自然エネルギーがあるじゃない!!そういえば安倍さんの奥さん、現代のアントワネットみたいですが、それも一億総アントワネット時代の日本人が生み出したと考えれば、日本は何というアンシャンレジーム的な民主主義の国であることか、ある意味一貫しているとも思えてきます。
残念ながら日本人すべてがアントワネット気分を続けると、そのままどんどん化石燃料が逼迫してきます。あまり価格が変わらない食品に対してエネルギー料金はどんどん高くなります。
現在の食品-エネルギー価格をおおざっぱに見積もってみましょう。一ヶ月の食料品代を10万円とすれば、エネルギー料金(電気代+ガス代+ガソリン(灯油)代)は一万円くらいでしょうか? エネルギー代が10倍になれば、エネルギー代も10万円で、食費とほぼ同じになります。これって日本の平均の家庭で耐え得る価格でしょうか? 相当の危機なのでは? でもこれはごく初等的な物理学と同じくごく初等的な経済学から出てくる結論です。つまり小学生でも解る理屈です。
そして怖いのは、この状態をどれだけガマンしても、危機が過ぎ去ることはないことです。永続的というか更に悪化するしかない危機なのです。恐ろしいと思いませんか? 私はそれを考えて恐ろしくなりました。これだけは避けなくては。それが私の原点です。

エネルギーを農耕化するしかない

エネルギーを農耕化しよう。これは先にご紹介した拙著の結論です。ちょうど前史時代の人類が食料を狩猟で得ていたように、現代人はエネルギーを狩猟(採取)で得ています。そしてそれが有限であることを真剣に考えません。特に現代日本人は。
一方食料が植物や動物であり、それは育てることが出来ることに気づいた我々の祖先は、それを育て農耕化することを覚えました。産業革命を遙かに超える人類史上の重要な革命です。
それにならって、すべてのエネルギーが太陽エネルギーの変形であることを知る現代人は、悠久で大量な太陽エネルギーの流れを使って、現代的なさらには未来的な快適生活を続けるために、エネルギーを農耕化すれば良いのだと、3.11の余震が続く中、私は考えました。今でもその結論は正しく、それ以外の方策はないと確信しています。それはエネルギー保存則という、エネルギーに関する動かしがたい自然法則が示す唯一の結論です。
食料の農耕化は人類の生活様式を根本的に変えました。それ以降文化が継承されるようになりました。それ以前の痕跡はよく言われるようにDNAに残るだけです。農耕化以前の生活様式は、想像するしか他に知るすべはないのです。農耕化による生活様式の変容は、まさに想像を絶するものだったでしょう。だけどその変化の大きさは、その時代に生きた人を含めて、誰も知りません。何故ならその大変革は幾世代も続き、お爺さんが孫に語り伝えた変革は、そのごく一部だったでしょう。そして口承の他は、他人に伝えるすべを、まだ人類は持っていなかったのですから。
未来に向けての農耕化はそれ以上に想像を絶するものかも知れません。幾世代もかけそれは実行されるでしょう。現代に生きる我々に出来ることは、現在生まれたての赤ちゃんも含めて、その完成形を知る楽しみではなく、未来に向けてその方向に動き出すことだけです。
ただその方向に動き出すには、素晴らしい喜びが伴います。人類の明るい未来を築くのだ、快適な持続社会を築くのだという大きな希望を持つことが出来ます。そしてその道筋で、それぞれの段階で幸せな環境を楽しむことが出来ます。
人生の選択肢に出会ったとき、少しでも未来社会へ向けた、自然エネルギー農耕化に向けた選択を、大きな要素として取り入れる。だって人類始まって以来の大変革は、一世一代で完結するはずもなく、幾世代と続けられて始めて完了するものですから。そしてエネルギーの農耕化は、食料の農耕化と異なり、伝承するすべを人類は持っています。10世紀後の人類に、貴重な経験を語り伝えることが出来るのです。

アフターコロナの希望

今回コロナ禍で皆不安に陥っています。また非常に危機的な状況でもあります。しかし私はあえてこの危機はまだ良かった、これを転じて福とすれば良い、と書かせてもらいます
この文章はこの記事の最初の部分をコピペしたものです。これまで記事を読んで下さった方にはお分かり頂けるのではないかと思っています。コロナ禍で多くの人が大都会密集の恐ろしさを感じたと思います。多くの方が出来るなら大都会に住むのを止め、もっと広々した地域に住みたいものだと感じてもらえれば、それが自然エネルギー農耕化への第一歩になります。何故なら大都市集中を止め、地域分散型社会創造に向かうことが、自然エネルギー農耕化の第一歩であり、それをさけては自然エネルギー社会は到達不能であるというのが、3.11以来の私の初等物理学による考察の結論であるからです。アフターコロナは自然エネルギー未来社会へと通じているのです。

地域分散型社会へ

自然エネルギーで支えられる社会、感染に強い社会、持続する未来社会は、地域分散型社会が基本となります。東京一極集中は古いのです。悠久で莫大だが、疎である太陽エネルギーを基盤とする要請と、感染を極度に広めない社会構造の要請がそれを指し示します。

東京集中が経済発展を阻害する時代に入った

地域活性化が叫ばれて久しいが、なかなか進みませんでした。東京集中のほうが経済発展にとって都合が良いという20世紀型の古い考えが、地域活性化を遅らせたのです。コロナ禍でその考えがもはや通用しなくなったことが解りました。東京は過密である故に、経済の回転をストップしなければならない状態が長く続いています。新型ウィルスによる感染という環境破壊が、これからも起こることを考えなくてはならなくなった21世紀では、大都市集中は永続的な経済発展をむしろ阻害するものとして認識しなければならなくなるでしょう。

アフターコロナで経済を本格的に動かし始めるとき、地域をまず活性化することから始めなければなりません。地域を如何に魅力的な場所に変えていくか。それはこれまでも各地域の人が苦心して乏しい予算の中でやってきました。国は地域活性化のために、アフターコロナでは大きく予算を割いて、その地域に自由裁量で使えるよう仕向けていくことが求められるでしょう。地域には地域特有の問題がありますから。

新幹線整備を国策として

しかし共通した問題もあります。鉄道整備です。新幹線の整備進行は遅くなっていますが、新幹線網の整備は、地域の経済にプラスとなります。北海道新幹線、九州新幹線、山陰新幹線、四国新幹線など、地域分散型を計るなら、国が先導して行わなければなりません。
例えば長崎新幹線が、隣の佐賀県の反対で難航しています。佐賀県にほとんどメリットがないのに佐賀県が負担する経費が大きいとの理由です。それならその分を国策として推進するために、国が負担をするチョイスもあるでしょう。長期的に地方分散社会として日本を再構成するなら、優れた鉄道網構築は避けられません。

リニアは時代錯誤

逆にリニア新幹線は時代錯誤と考えます。まずリニア新幹線は、鉄道総研の研究結果では、エネルギー消費は鉄道と自動車の中間であるという結果が出ています。鉄道の魅力の第一はそのエネルギー消費の少なさにあると私は考えます。リニアにはその魅力はないのです。そして静岡県が指摘しているように、その環境破壊は実に大きいのです。
リニアが時代錯誤である理由はもう一つあります。リニアの推進者の一人の講演を聴いたことがあるのですが、リニアは首都圏、近畿圏、中京圏の三つの圏を一つにまとめるという発想をしておられました。つまり集中の発想の上に立っているのです。この発想は時代遅れでしょう。

地方都市にLRTを

中小規模の都市を活性化しなければなりません。地域の足が必要です。東京は通勤の足として地下鉄を含めた電車網が発達しています。これからは地域の生活の足として、LRTを整備していかなければなりません。これについてもこのブログで多面的に捕えて発信して行こうと考えています。

以上のことを詳しく論理的に、また基本的な科学を使って、このブログでは発信していきます。これがなんだろうブログの基本姿勢です。

えねるぎぃっ亭南駄老でした。

この記事でご紹介した私の著書についてリンクを張っておきます。興味ある方は、是非ご覧下さい。

是非ご一読下さい。
千年文化を考える会はNPO法人です。NPO法人の主たる財源は諸会費及び寄付となります。
コロナ禍で特に見られた現象は、20世紀から隆盛を誇ったマスメディアの衰退です。インターネットが進化するにつれ、SNSがマスメディアに取って変わりつつあります。それに伴って企業の広報活動も変わりつつあります。ブログなどに広告を貼り、その力で未来志向の企業活動が活性化しつつあります。
このブログでは私自身が納得できる各種広告とリンクさせていきます。例えば下記通販を、このブログから入って注文すれば、いわば新たにポイントがつき、そのポイントが千年文化を考える会の寄付となるという仕組みです。もちろん一つ一つのポイントは小さいですが、ちりも積もれば山となるという訳です。
大都会が魅力であった理由の一つが、客が多いので大規模店舗が可能であることでした。地域社会では限界があります。しかし地域に密着した魅力的な店舗と、そして規模に於いて圧倒的な通販の両立を図ることが、地域社会の課題でもあると考えられます。そのような役割分担に関する情報も、このブログでは取り上げていこうと考えています。
地域の店舗を補う意味での通販を利用する目的でも、このページを訪れて下さる人が増え、そしてこのページから通販の注文をすれば、会の寄付収入となるということで、是非皆さんこのブログをブックマークして、あるいは南駄老のページを思い出して、通販を使おうと思ったときはここから入ってみる習慣をおつけ頂ければ幸いに存じます。ありがとうございました。

おすすめの記事