ポストコロナの世界

コロナ渦が意味するもの。

新たな型の危機としてのコロナ渦

コロナの恐怖に人々が怯え始めて、早くも一年が過ぎようとしています。世界中の人々が一年もの長い間、ある事象に死の恐怖をもって怯えたのは、人類史上初めてのことではないでしょうか? 
なるほど前世紀に起きた二度の大戦は、数年にわたって世界中の人々を、死の恐怖を持って怯えさせました。しかし、戦争には中立国がありました。スイスやスウェーデンなどの中立国では、死の恐怖は原則的にはなかったのです。今回のコロナ渦ではいかなる国といえども、原則的に死の恐怖を逃れる国はありません。コロナウィルスは人間の営みを越えて、ありとあらゆる人の意思も無視して、世界に浸透していきました。否応なしにすべての国境を越えて、コロナ渦は全世界の国を襲いました。そういう意味で、人類史上初めての経験であり、人類は未知の恐怖に遭遇しつつあると言えます。
もちろん疫病は昔からありました。しかし今回と違うのは、疫病は常にローカルなものだったことです。コロナ渦のように同時にグローバルな危機として人類を襲ったことは、過去にはありませんでした。なるほどスペイン風邪などがあったという人もあるでしょう。しかしその当時の世界旅行は船で行われ、人々の行き来は現在とは比べるすべがないほど、小さなものでした。したがってその危機も現在と比すべくもなく小さく、その証拠に当時は日本にもあった戒厳令が発令されることもなかったし、恐らく政府が検討したこともなかったでしょう。そういう意味で人類は世界大戦に匹敵する脅威に新たに直面しています。そして今後も類似の脅威は起こり得、それに対抗する手段を持たねば、人類は21世紀にその存続をかけた危機の時代を迎えることになる可能性があります。

近代化の負の側面としてのコロナ渦

疫病も新型ウィルスも、昔からあったでしょう。環境が悪化したので新型ウィルスが発生しやすくなったという指摘もあります。環境悪化は現代人の活動の結果の負の側面です。
新型ウィルスが発生しやすくなったかどうかは私には判断できません。おそらく誰にも判断できないでしょう。しかし今回のような全世界を巻き込んだウィルスに拠る危機は、間違いなく初めてのことです。仮に昔発生したとして、記録に残ってないはずはありませんから。
何故昔には起こらなかったか? 理由は明らかである気がします。飛行機がこれほど自由に、また大量に世界を結びつけて飛んでいなかったからです。そのように認識するとコロナ渦は、急速なグローバル化の負の側面であることは明らかです。
さらに進めて考えてみましょう。コロナ感染は大都会ほど深刻であることは、実感として皆さん解っているでしょう。その実感は一方的にマスメディアから来ています。私も含めてですが、多くの日本人は実際のコロナ感染と無縁でいます。つまり知人の誰一人として、コロナに感染してはいないと言う人が多いでしょう。でも世界で多くの人が感染していることをニュースで知っています。
ニュースの多くはマスメディアが発しています。日本のマスメディアは、ほとんどが東京から発信されています。つまり東京目線で発信されています。東京あるいは首都圏の人は、ほとんど気がつかないでしょうが、長い間東京に住んだ後、この2年ほど京都に住んでいる私には実感として感じられます。ほとんどのニュースを、東京目線で見てマスメディアが垂れ流していると。
例えば全国の感染者情報を基に考えてみましょう。東京の人は全国の感染者数の増減と東京の増減とに、違和感を持たないでしょう。何故なら東京が増えたら、ほとんど同時に全国も増えていますから。
一方例えば北海道の増減をちょっと気にすれば、北海道の増減と全国の増減のタイミングには、大きな隔たりがあることが解ります。大都市圏以外の県では、その県の増減と全国の増減の関連を見つけることは、とても難しいのではないかと思います。しかし東京からのニュースやその解説で、そのような地域の現実感覚を捉えた発言は皆無といっていいでしょう。これが東京目線です。東京の新規感染者数と全国の新規感染者数に相関関係が明らかにあることは、東京が発生源で全国に広まっているという構造を示唆するのですが、東京目線ではそれすら見えないのは当然でしょう。自分たちの都合が悪いことが見えにくいのが○○目線の特徴ですから。
何故そうなったのか? もちろん明治以来の日本近代化の波に乗り、多くの人が大都会に流れ、高度経済成長期以後特に東京一極集中が進んだからです。しかし東京の人口は日本の約1割に過ぎません。残り9割は東京住民ではないのです。
このブログの別の記事で、日本における感染拡大は常に、東京で感染が広がり、それが地方に流れていったとみることが出来ることを示しています。記事を見る。新規感染者数を通して、基本的統計手法で見てみると素直にそう出てきます。東京目線に立てば、そう見たくはないでしょうが。一方東京が一番感染が酷いわけですから、東京の人が一番苦労していることはあきらかなのですが。東京一極集中故に東京が一番密な都会であり、感染に必然的に弱いのです。これも高度経済成長以来の、経済成長至上主義の負の側面であることは容易にわかります。

コロナ渦と環境破壊は同根である。

こうして見るとコロナ渦は近代化の負の側面です。そして近代化の負の側面としてかねてから言われてきたことがあります。それは環境破壊です。コロナ渦と環境破壊は、近代病という同じ病気の、別の症状であると考えることが出来ます。
近代病は西欧近代の負の側面として、産業革命期に始まりました。近代病の代表と考えられているのは地球温暖化です。化石燃料が大量に燃され、CO2という温暖化ガスを大量にまき散らした結果、現代になって地球温暖化という現象が顕著になったと考えられています。これには異論を持つ人もかなり多いのですが、人為的な化石燃料消費は、様々な形で地球環境破壊をまき散らしていることは明らかです。マイクロプラスティック汚染は、汚染源そのものが石油を原料としたプラスティックですし、ヒートアイランドは、人間活動から来ることは明らかです。また巨大台風発生など異常気象も近年明らかに増加しており、これは恐らく近年明らかになっている日本近海海水温上昇が原因でしょう。台風が発達するのは海水温が高い南海で、海水温が低くなれば弱まるのですから。そして日本近海の海水温が高くなる理由は、火力発電所と原発からの、大量の排熱しか考えられません。大量の電気は人々の暮らしを便利にしていますが、その裏返しとしての負の側面が、海水温上昇と考えられます。
このように考えて行くと、産業革命以来の流れを考え直すことが、唯一の解決策であることが解ります。

近代の負の遺産を克服する唯一の手段としての自然エネルギー

産業革命で人類は大量の化石燃料消費を始めました。その結果急速な社会変化を生み出しました。それまで地球上のごく一部で生存していたヨーロッパ人が、急速に軍事的にも経済的にも強くなり、その思想であるヨーロッパ近代主義を世界に輸出し、そして世界を急速に変えていきました。ヨーロッパ近代思想は、絶対的に正しい思想であるかのような幻想さえ与えてきました。東京目線は近代思想の上滑りの解釈の結果であるに過ぎないのではないか、そう私は感じています。
間違いなくヨーロッパ近代思想は偉大な思想です。ある時期人類に多大な利益と人類社会進歩を生み出しました。正の側面を多大に持った思想であり、それを完全否定すると間違った考え方に導かれるでしょう。
一方で上に見たとおり、産業革命以来の近代には、負の側面が伴い、その負の側面が20世紀末から急速に姿を現し、多くの人にそれが見えてきた一環として、今回のコロナ渦があるでしょう。
そうであるとすれば、産業革命以来の価値観をもう一度疑う必要があるでしょう。産業革命以来問題とされてこなかった大きな要因が、これからの人類にとって重要なものとなっていくでしょう。今ほど常識を疑えという格言を重要視しなければならない時代はないのではないでしょうか? 何故なら現代の常識のかなり多くが、近代以降に常識とされてきたものであるからです。

エネルギーを捕え直す

何よりも化石燃料が生み出した常識は、疑ってかからなければなりません。例えば資源小国日本という常識です。またエネルギーと言えば電気と発想する常識も間違った常識です。
上に二つ疑うべき常識を上げました。それを吟味しましょう。まず二番目エネルギーと言えば電気という常識です。これはほとんどの日本人にすり込まれているが間違いがすぐ解る常識です。何故なら統計データを調べたら、一番多く使われているエネルギー源(最終エネルギー消費)は、電気ではなく圧倒的に石油が多いのです。ところがエネルギーの議論となれば、自然エネルギー発電だの、電源構成だの、原発の可否など、様々な立場の人が直ちに電気を想定してしまいます。ベロを出して密かに喜んでいるのは、化石燃料にどっぷりつかってたっぷり儲かっている人達でしょう。このような人達がエネルギーの専門家の顔をしてエコを語っていますが、貴方のすぐそばにもいるかもですよ。
第一の常識を吟味してみましょう。日本はエネルギー資源に乏しい。これは間違いではありません。資源としてのエネルギー、すなわち化石燃料は、疑いも無く乏しいですね。しかしこの常識は恐ろしい間違いを論理的に導きます。エネルギー資源は乏しいから、エネルギー源は輸入に頼らなければならない。このような理屈が平気でまかり通る恐ろしさがあります。この理屈電力会社などが平気で垂れ流す、恐ろしい結論なのですが。少し考えれば解るでしょう。エネルギー資源である化石燃料は確かに日本では乏しい。でも化石燃料に頼らない場合のエネルギー源については?
そのうち化石燃料を使わない時代になります。菅政権の唯一の功績は、CO2排出をゼロにすると言ったことです。これを言ったことで、後世安倍さんより菅さんは高い評価を与えられるでしょう。つまり実質化石燃料を使わない社会にすると言ったわけですから。CO2排出をゼロにするを、エネルギーから見て正しくかつ簡潔な言葉で言い直せば、化石燃料消費をゼロにするになります。
え、何ですって? CO2排出ゼロと化石燃料消費ゼロは、同じ意味ではないだろうって? それこそ化石燃料時代の、最大の誤った常識ですよ。CO2排出は化石燃料を消費するからこそ起こるのです。中学生にでも解ります。

CO2排出ゼロは何を意味するか?

何故菅さんは化石燃料消費ゼロと言わずCO2排出ゼロと言ったのでしょうか? もちろん菅さんも、この二つのゼロの意味は違うという、間違った常識にとらわれているからでしょう。そこにCO2排出ゼロに込められた、非常に巧妙な近代西洋の政治的ずるさを見ます。
僕はあるときからこの問題を単純に思うことに決めました。それは単純な論理ですから、論理自体は容易に解って頂けるはずです。
産業革命で大量の化石燃料消費を開始した西欧文明は、この記事の最初の部分で見たように、近代西欧思想をその指導原理として、世界を席巻するに至った。しかしその限界が見えてきた。その限界とは、一つは化石燃料の有限性から来るものであり、今一つは様々な形で現れる環境破壊である。明らかに化石燃料に頼る状態から脱却しなければならない。
しかし化石燃料消費をゼロにするを政治的スローガンにすればどうなるか? それは産業革命を否定することになる。産業革命は民主主義革命と並ぶ近代西欧社会が最も誇るべき事業であり、それを否定することは出来ない。西欧文明の根幹に関わることだ。だとすれば化石燃料が排出するCO2を悪者にすればいい。そうすれば悪魔原発にも救世主の仮面をかぶせることが出来る。
そうストレートに考えたかどうか知りませんが、そのように考えると、何故化石燃料消費ゼロをCO2排出ゼロに置き換えたか、理解できます。
物理学の論理は結果が分ればストレートです。ですから物理学者が思考するとき、最大限ストレートな論理を好みます。一方政治はストレートではありません。長い歴史を経て、その文化の、その国の、その社会の、そしてその党派の現在があります。民主主義では、如何にその国の、その社会の多くの人々を納得させるかに、政治家達の主眼があります。そうであるなら、ある地域の政治的スローガンは、ストレートではなくなるとみたほうが良いでしょう。
西欧社会はいち早く化石燃料大量消費を始めました。そしてその限界にもいち早く気付きました。次の時代は化石燃料時代ではない。言い換えれば、世界を主導した西欧近代主義は、次の時代を主導できないかも知れない。化石燃料消費ゼロは、次の時代に向けて、西欧近代主義を否定することに繋がりかねない。
いっそのこと化石燃料消費社会は、一時的なものだったと考えるほうが、ずっと未来を見るのに解りやすい現状理解を与えると思うのですがね。日本にとって西欧近代主義は便利な借り物でした。良い部分だけ取って、悪い部分はさっさと捨て去るほうが、よほど解りやすいと思いませんか?

自然エネルギー社会へ向けて

太陽エネルギーの流れ

自然エネルギーは、太陽起源のエネルギーです。太陽は巨大な「火の玉」ですが、その構成元素は、ほとんどが水素です。地球の構成から見ると不思議に思えるかも知れませんが、宇宙全体の構成粒子はほとんどが水素で、これは宇宙創生期のビックバンで出来た粒子はほとんどが水素であったことを反映します。
莫大な水素原子からなる巨大な太陽は、その中心部で絶え間なく核融合反応を進めています。一連の核融合反応で、四個の水素原子核が一個のヘリウム4原子核に変わる過程で、0.7%ほど質量が小さくなり、質量はエネルギーであるというアインシュタインの有名な公式で、莫大なエネルギーが絶え間なく太陽の中心部から流れ出します。
常に起きる核融合反応で、千数百万度に保たれる太陽中心部から、常にもっと低温である表面に向けて、熱エネルギーが流れ出します。流れる熱エネルギー量は、平均すれば発生する熱エネルギー量に常に等しく、その均衡で太陽が安定したエネルギー源であることが保証されています。流れは太陽内部で次々と流れのメカニズムを変えながら、平均すれば常に安定して、約6000Kの低温である太陽表面へと流れていきます。
太陽系成り立ちの話をはやぶさ2と関連づけて説明しています。
そして太陽表面に達した熱エネルギーは、6000Kという高温の太陽表面から3Kという超低温の宇宙空間へと、太陽光に運ばれながら流れ出していきます。その量は平均して、もちろん太陽中心部から放出される核融合反応によるエネルギー量に等しいのです。
ほぼ球形と見なしていい太陽は、均等に太陽の周りの空間にこのエネルギーを放出します。遠く離れた地球は、そのごく一部分を受け取ります。その大きさは、地球で消費される化石燃料の発熱量の一万倍以上、一秒単位で見ても一万倍なら、一年単位で見ても一万倍です。この莫大なエネルギーは、地球上で様々に形を変え、森羅万象のエネルギーとなります。人もそのエネルギーのひとしずくで生きています。一日に二千キロカロリー、一秒で100ジュールつまり100ワットが、人が必要なエネルギーです。
人は皆が知っているように食事からエネルギーを得ます。食事は何故エネルギーを持っているかは、光合成を考えると解ります。光合成で植物はCO2とH2Oから有機質を作りますが、その時に太陽エネルギーを取り込みます。植物を人が食べ動物が食べます。その動物を他の動物が食べ、人が食べます。食べそして食べられることで、太陽エネルギーが次々と引き渡され、こうして地球上に豊かな自然が溢れています。
太陽エネルギーはすべての気象を引き起こします。そしてすべての気象は太陽から貰ったエネルギーで様々な様相を帯びます。地球上のすべてのものー森羅万象ーは、太陽エネルギーが流れることによって引き起こされる現象なのです。そして地上は約300Kの温度に保たれています。空気中に含まれるごくわずかなCO2が、ちょうど布団のような効果をもたらして、地球をこれらの活動が行いやすい環境に保っています。
300Kの温度を持った地表からは、周囲の3Kという低温の宇宙空間に向けて、赤外線を運び手として常に熱エネルギーを放出しています。その熱エネルギー量は、平均して地球に降り注ぐ太陽エネルギー量に常に等しいのです。こうして地球上のすべての現象は、太陽からの贈り物であるエネルギーの形を変えながら出現し、絶え間なくエネルギーを受け取り放出しながら、46億年の長い地球の歴史を刻んできたのです。地球は生きている。そして太陽エネルギーの流れの中で生きています。それを人々は自然エネルギーと呼んでいるのです。自然エネルギーは、実に多様な太陽エネルギーの流れに他なりません。

自然と人との関係

人も森羅万象の一部です。我々も太陽エネルギーの流れの中で生きていることを理解すれば、人も自然の一部であると考えるのが、人という存在を理解しやすくなるでしょう。良く指摘されるように、この考え方は日本の伝統的な考え方では当たり前のものでした。自然は人に対立し、人は自然を征服する存在であると考えるのは、西欧近代主義として輸入した考え方の一部です。自然を征服すると考えれば、なりふり構わぬエネルギー消費が推進され、化石燃料消費が促進されます。その結果が快適さを追求したのに、自然から逆襲されているという結果を招いているのが現状ではないでしょうか?

人の為の快適な空間から出発

我々の社会を考えて見ましょう。東京一極集中に代表される大都市集中。大都会は高層ビルが林立し、道路には自動車が溢れかえっている。この姿が進歩と考えられてきました。更に発展して自動車が空を飛ぶ? 馬鹿を言っちゃいけません。自動車でもがんがんエネルギーを使っているのに、空を飛べばどれだけエネルギーを消費するの? 空を飛ぶ自動車が事故って落ちてきたらどうするの? 高層ビルにぶつかったらどうなるの? あちこちで9.11が起きて人類は混乱に陥るでしょう。そんな妄想が夢と思うなら、夢を持つことが良いことだという常識は捨てなくては。
自動車に乗らない立場で考えて見ましょう。何故道路を自動車が占有し我が物顔になったのでしょう。60年以上前、私が子供の頃、道路で遊ぶのは当たり前でした。道路は人の為だったのです。
もともと道路は人が公共に使うものでした。そこでは子供達も当然のように遊んでいました。商売にも役立っていました。
そんな昔の話と笑ってはいけません。西欧近代を疑い始めた西欧では、道を人が取り返すことが当然となってきているのです。町の中心部の道は人の為にある。歩行者天国ですね。歩行者天国になった町の中心部は、賑わいを取り戻します。中心部がシャッター街になるというような町は、ヨーロッパには存在しません。
この空間では人の憩いの場です。オープンカフェが建ち並び、機会を見ては様々なイベントが繰り広げられます。
多くのドイツの町ではマルクトプラッツという広場がありますが、これは英語に直せばマーケットプレイスつまり市場という意味です。中世にはそこで(通常町の中心部に有り、四方から集まりやすい場所)青空市場が開催されていました。
中心街の歩行者天国はマルクトプラッツの再現です。一時自動車に不当にも占拠された中心部を、人の手に取り返したのです。そしてそのほうが町自身が活性化するという実証実験の結果が、ヨーロッパのあちこちで見られるのです。
自動車はそのような町では脇役に徹します。もはや中心部を我が物顔に走行することは許されないのですから。
もちろん自動車は必要です。自動車が現代のマルクトプラッツを中世のそれとは異質の物にします。自動車は決められた時間の中で、物資を運び込んだり、ごみを搬出したりします。また人々は郊外の自宅から、公共交通機関の駅におかれた駐車場までドライブし、そこで公共交通機関に乗換えマルクトプラッツに行きます。パークアンドライドです。

自然エネルギーが作り支える未来社会

化石燃料は近現代社会を作りました。自動車氾濫社会や高層ビル林立社会は化石燃料がなくては実現できなかったでしょう。その化石燃料の弊害が明らかになってきました。まず第一に化石燃料は有限です。また化石燃料による環境破壊が、無視できないレベルになっています。
新しい時代を化石燃料が切り拓く時代は終わりました。化石燃料的発想では、次の時代を作れず、ソノママにしておけば、化石燃料の有限性が明らかになる段階で、時代の限界と、その壁を打ち破る方法が最早ないことが誰の目にも明らかに判明し、今回のコロナ渦以上の悲惨な状態に、全世界が包まれることでしょう。自動車が空を飛ぶみたいなことを言って夢を与えているふりをする人などは最早生きてはいないでしょうが、そのような幻影で人々をだましてきた記憶は消しようがなく、墓が大衆によって暴かれてしまうかも知れません ちょうどソ連崩壊などでレーニン像などが引き倒されたように。
今はまだ次の時代を造り出す余裕があります。太陽からの流れである自然エネルギーを利用して、自然エネルギー社会を建設できます。
大量の自動車は自然エネルギーでは走りません。一方電車はエネルギー消費が極端に少なく、自然エネルギーで支えることが出来ます。
でも何よりも道路は人々のものだという発想が必要です。色んな地方の人が、自分たちの地方都市の中心を歩行者天国にしたらと考えて見たとしたら。そこから未来が見えるのではないでしょうか? 東京一極集中で疲弊した地方都市の、新しい姿が見えてくるでしょう。そしてその先に、自然エネルギーで支えられる地域社会が見えてくるでしょう。何故なら太陽エネルギーは、すべての地域に降り注ぎます。人口が密でない地方都市ほど多く、太陽の恵みを受けているでしょう。その太陽の恵みを地域で有効に生かす方法を、地域の人が知恵を絞って探すのです。どうです。ワクワクしませんか?

えねるぎぃっ亭南駄老が心から提案させて頂きます。

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