トヨタのご飯論法

上の画像は10年ほど前、LRTとそれが作り出す町の素晴らしさを紹介しようと、私が取ってきたカールスルーエのトランジット・モールの画像です。町の中心の商店街は歩行者天国になり、脱自動車街となっています。LRTがゆっくり通過する前を、何組もの人々が平気で横切っています。
見たとおり道路の主役は自動車ではなく人です。脱自動車という未来社会のひな形が世界各地にあるのに、日本では何故か過去の産物の自動車会社が、未来モデル都市を造るニュースばかりが流れます。日本では政治家も事業家も嘘ばかりで塗り固めているのか?

エネルギー関連の嘘はたれっぱなし

水素によって発電するので、充電はいらないー新型ミライ登場」これが今ネットで見つけたトヨタの宣伝です。日本では誇大広告は禁じられているはず。エネルギーを理解しているなら、これは誇大広告そのものです。あるいはトヨタは日本人を馬鹿にしているので、日本人にはこの嘘が見抜けないと考えているのでしょうか? そうとしか思えない表現です。恥を知れ落日のトヨタ!!

発電って何? 充電って何?

水素で「発電」するから「充電」はいらない。こういうからには発電と充電は違うんですよね。でも発電と充電の違いって解ります?
発電とは何でしょう? 火力発電とか水力発電とかですよね。地上には様々なエネルギー源が存在しますが、地上にあるエネルギー源を電気エネルギーに変換することが発電の意味です。そして電気エネルギーは、家電などで音や光などの他のエネルギーに変換されて、人々の役に立っています。
こうして電気は現代ではエネルギーの代名詞みたいになっています。ただ電気エネルギーには欠点があります。他のエネルギーから変換されたとき、つまり発電したときに直ちに別のエネルギーに変換されないといけないー消費されないといけないーのです。その欠点を補うために、充電が行われ、電気エネルギーが何かに蓄えられるわけです。例えば電気自動車では、リチウムイオン電池に充電されるわけです。貴方のスマホもパソコンもリチウムイオン電池を内蔵していて、充電することによって電気エネルギーを好きなときに採りだして作動させることが出来ます。
発電と充電の違いを解っていただけたでしょうか? 発電は地上にある何かのエネルギーから電気エネルギーに変換することです。一方充電とは、一旦発電された電気エネルギーを好きなときに取り出せるように貯蔵することです。

水素は明らかに充電である

水素自動車は水素を利用して走ります。その水素はどこから持ってくるのでしょうか? これはトヨタの宣伝などを見れば解ります。水を電気分解する・・・。これが一番安くかつ大量に水素を作り出す方法です。
水の電気分解とは何でしょうか? 電気を利用して、水を水素と酸素に分けることですね。つまり電気エネルギーを水素に貯めているのです。
これは明らかに充電に当たります。発電ではありません。言い換えれば水素はエネルギー源ではなく、何かのエネルギーを変換して生成されるものです。
そしてそこに自然界の錦の御旗が現れます。エネルギー保存則です。エネルギー保存則に拠れば、水素に貯蔵されたエネルギーは、元のエネルギー源が持っていたエネルギーを、決して越えることはないのです。これはリチウムイオン電池の貯蔵するエネルギー量にも言えることですが。

水素でエネルギーを貯蔵するので重い電池はいらないーご飯論法

水素で発電するので充電はいらない。このごまかしの作文を添削してみましょう。簡単です。水素でエネルギーを貯蔵するので重い電池はいらないとなります。
トヨタに充電って何と聞けば、電池に電気を蓄えることだと答えるでしょう。巧妙に逃げ口を作ってあります。電池にするのが充電だと。水素にするのは充電ではないのだ。エ、エ、エ・・。何か国会で問題にされたご飯論法に似ていませんか。今日はご飯は未だ食べていない。食べたのは朝トーストを食べただけで、お米を炊いたご飯は食べてない。だから今日はまだご飯は食べていない。これがご飯論法です。充電は重い電池に電気を蓄えるものだ。重い電池を使ってないから充電はしていない?・・・。
さてご飯論法は、言葉の定義を正しく考えれば、ご飯論法の真の目的を見抜くことが出来るという、聞く側にとっての利点があります。ご飯論法の発信者には、限られた意味でのご飯ではなく、通常の意味でのご飯はもちろん必要なのです。通常の意味での「食事」に対して限られた意味でのお米を炊いたご飯。その通常の意味での必要性を隠すためにご飯論法があるわけです。トヨタも限られた意味での充電ー重い電池での充電ーではなく、通常の意味での充電は必要なのです。
それでは何故ご飯論法に頼るのか。ご飯論法は知られたくない事実を隠蔽するために、国会の答弁で多用されました。逆に言えば、隠している事実を見抜くために使えます。
重い電池を避ける。これが真意です。電気で動く自動車は、重さとの戦いでした。電気自動車の初期の挑戦者はエジソンでした。エジソンも電気自動車を熱心に開発しましたが、重さに勝つことは出来ませんでした。
何故自動車は重さをそんなに気にするのか? 重さがほぼ走行距離に比例する消費エネルギーに直結するからです。それだけ自動車のエネルギー消費は他の乗り物と比べて大きいのです。
運輸部門のエネルギー消費は、工場のエネルギー消費に次いで大きいのが、世界各国で共通しています。日本も例外ではありません。そして日本の運輸部門の消費エネルギーの98%が石油製品であり、それもそのほとんどが道路上で使われています。要するに自動車のエネルギー消費は、非常に大きな割合を占めています。一方運輸部門の消費エネルギーの残りの2%は電気エネルギーであり、そのほとんどが線路上で使われています。つまり電車と電気機関車で使われているのです。
タイヤで走る自動車と、線路上を走る電車では、全くエネルギー消費が違うことを皆さんに知って欲しいと思っています。
電気自動車や水素自動車を否定する訳ではありません。しかし自然エネルギー未来社会では、自動車の重要性は大幅に減少するでしょう。脱自動車社会ーこの切り札が、中小規模の都市ではLRTとそれが通る歩行者天国ートランジットモールなのです。限りある地球を、それでも無限の可能性を持つ、限られた空間と町を最大限楽しむ、そのような時代へと移行しつつあります。それは脱自動車社会でもあります。
がむしゃらにどこにでも行きたがる時代、19世紀アメリカの西部開拓時代を引きずる古臭い過去の産物、それが自動車なのです。自動車社会を抜けだそうではないですか!!

えねるぎぃっ亭南駄老でした。


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