地域分散型社会に希望あり-琵琶湖疏水は地域復興のモデル-

ポストコロナの未来は地域にある

コロナ禍が始まって早くも半年が経過しました。まだまだ収まりそうもありません。
恐らくコロナ禍が最終的に世界中で解決されるためには、2~3年の時間がかかるでしょう。ワクチンが出来るために早く見積もっても1~2年必要であると言いますし、それが世界中で効果を発揮しつくすまでに、やはり1~2年必要でしょう。
2~3年の長きにわたって、世界中に悪影響を与える事態は、20世紀前半に二度ありました。そう世界大戦です。そして二度の大戦が終わった後、世界は全くその姿を変えました。20世紀初頭の世界と、20世紀後半の世界は全く違っているでしょう。同じようにコロナは世界を変えます。また新型ウィルスパンデミックは、コロナ後も起こりうる事態です。したがって世界中で社会を「感染に強い」社会に変えていかなければならないでしょう。
感染に強い社会の根幹は、大都市集中の終焉を意味します。これまで大都市集中の危険性は、様々な観点からさんざん指摘されてきました。私も将来不可避的に起こる化石燃料脱却と自然エネルギー社会の視点から、大都市集中型社会を継続する危険性を、3.11以来の考察から、常に発信してきました。しかし大都市集中によって利益を享受している、東京や大阪にはびこる「反対勢力」が、常にそれを無視してきました。
今回のコロナ禍では、明らかに大都市が脆弱だということが解りました。ニューヨーク、パリ、ロンドン、そして東京。大都市集中はやめなければいけないのです。日本では第一波はかなり上手に収束できたのに、東京が感染源として、また現在感染が広まっています。東京は全国に害をなしているのです。
日本では地域の弱体化が進んでいます。東京一強という状況が近年続きました。そのため今回のコロナ禍でも東京目線の情報が続きました。それも現状では仕方ありません。マスメディアの本社はすべて東京に置かれているからです。まるで日本全国すべてが東京目線です。地域の衰退を是正するには、東京目線を修正するところから始めなければならないのかも知れません。

明治の初期、衰退の危機から復興した京都

明治の初頭栄え始めた東京の害を受けて、衰退の危機を迎えた町がありました。京都です。千年の間天皇がお住みになった町京都は、天皇が東京に移られて急激に衰退の危機を迎えました。その有様が琵琶湖疏水を企画実行に移した京都第三代府知事の北垣国道の日記に残されています。

北垣は長きにわたって日記を書き続けました。静屋居士の筆名で、塵海と銘打った日記が残され、塵海研究会によって編纂され、思文閣出版から出版されています。長期にわたって綴られた日記の中から、琵琶湖疏水に関する部分を読み解いていくと、北垣の考えが良く伝わってきます。なかなかの名文だと思うのですが、古い文体で書かれており、それだけでも投げ出してしまう人がほとんどです。大変残念なことですが、現代に生きる大切な記録と思いますので、琵琶湖疏水理解に必要な部分をこのブログで原文を示しながら、古文書には素人ながらも、現代訳をつけご紹介したいと思います。興味をお持ちの方は、是非原本を手に入れられ、お読み下さいますようお願いいたします。

北垣は地域自然エネルギー産業革命としての琵琶湖疏水で、京都の復興を計画した

北垣の功績を一言で言えば、地域自然エネルギー産業革命で、衰退した京都の復興を試み、それが現代の京都の礎となったのだと、私は考えています。そして21世紀の今、我々が必要としていることは、世界各地で地域自然エネルギーに支えられる社会を築くことです。つまり世界各地で、地域自然エネルギー産業革命を起こすことです。
ゼロエミッション都市を宣言する都市が、あちこちに現れています。ゼロエミッション都市は、自然エネルギーで支えられる都市とほとんど同義です。これは私の専門の物理学から自信をもって言うことが出来ます。北垣は今から130年前、そのような試みを行っていたのです。現代の目から見ると、その意識は彼にはなかったという人もいるでしょう。そこまで時代が進んでいなかったと。しかし大局的に見て、彼のエモーションはその方向に向いていました。そして時代が一方的に「進む」という概念自体が、基本的に問い直されているのが現代ではないでしょうか?
彼は当時の化石燃料である石炭を排斥しました。理由は高価であること、そして現在の言葉で言い直せば、環境に悪いことの二つが、石炭排斥の理由です。
現代の我々から見ても素晴らしい発想であり、学ぶことが多い考え方ではないでしょうか?

塵海の原文を見ながら考えます

塵海の例を見てみましょう。北垣が琵琶湖疏水を立案した理由を最も良く知ることが出来る文の冒頭に当たります。読みにくいでしょう。これから訳をつけていきます。素人故の間違いがあるかも知れませんが、皆様の興味を引くことが出来たら、間違いを指摘する人も現れ、より良い形で広く読まれるきっかけになればと思います。
念のために書き記しておきますが、琵琶湖疏水の一部が哲学の道で、京都観光の定番の地となっています。

塵海の原文-1

この日記の頃、琵琶湖疏水工事は始まっており、工事続行が困難な時期にさしかかっていました。工事の財源を確保するため、市民にその収入に応じた税がかけられることになりました。反対の声が京都市内あちこちで上がります。その時北垣が取った策は、京都市民を直接説得する方策でした。塵海にはこのような記述があります。
「体調が悪く引きこもる間、琵琶湖疏水に対する疑問を持つものへ、三週間の間説明期間を置くという約束をする。その概略を書き留め他日の参考としたい。」そしてこうあります。「午前八時から午後六時までを来訪者面接の時間と決める。」
それから連日に渡って、数人の(恐らく各種代表者の)住所氏名と、その問いの内容、そして北垣の答えの概略が日記塵海に記されているわけです。その中で最も長文で、また琵琶湖疏水計画全体の流れがよく分る文章が、上に示した処から始まります。その全文をみれば、琵琶湖疏水計画の全貌が良く伝わります。

伊藤博文、松方正義からの依頼

明治21年7月20日、上京区(当時上京と下京の二つの区しかなかった)34組聖護院町の永井徹という人が、その日の来訪者の一人でした。その問いが記され、それに対する答えが上記塵海の文の4行目から始まります。現代語に訳してみましょう。

そもそも琵琶湖疏水工事は、軽率な思いつきでもなく、簡単に決めたことでもない。私が京都府知事に就任するに当たって、これは明治14年1月のことだが、伊藤参議(博文)と松方内務卿(正義)が私にくれぐれもとお頼みになった。それは京都の将来の機運が衰退に傾くことを憂い、赴任の上は京都の将来の方向性を見極め、千年の古都が奈良のような衰廃に陥らぬよう、しっかりと考案し、京都が長く繁栄を保つための方策を是非とも考えて欲しいということだった。
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琵琶湖疏水の発端は、伊藤博文と松方正義が、京都府知事に赴任する北垣に、衰退する京都に何とか復興の道筋を考えて欲しいと懇願したことにあることが解ります。おそらく皆が幕末の志士として若き頃活動した京都の衰退を見るに見かねた上でのことでしょう。ちなみに北垣も傍流ながら熱き志士の一人で、福岡藩士平野国臣らと生野義挙(生野の変)に加わっています。
上文は奈良には大変失礼ですが、古典を生き生きと伝えるには、現代の視点では許されない表現も、そのまま書き記し、その時代の問題意識を素直に伝えることも必要と考えてそのままの表現で表します。原文と比較の上ご判断下さい。
続けましょう。

これは至難の問題だが、その任に当たった以上、一日も無駄にするわけにはいかないと、微力を顧みず一心に考え続け、二月初めに着任してからは目をこれに凝らし、徳川氏三百年間の京都に於ける政略の要を考え、また古来の盛衰の流れを考え抜き、京都は商売の地ではない、工業美術を基本としてその繁盛を保つべきこと、また徳川政府が直接間接に工業美術に対して格別な保護を与え、もってこの繁華を維持したことに考えが至った。
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塵海の原文-2

徳川氏は京都に藩邸を置かせ、京都の名産を購入させる仕組みを造った

北垣は徳川氏の京都に対する政策を考えます。そして徳川氏が京都に各藩の藩邸を置かせ、藩を通じて京都の名産品を購入させたからこそ、全国にmade in kyotoの名が高まったのだと考えます。それを通じて京都ブランドを広めたと考えたわけです。日本には数多くの藩という地域社会があり、その地域社会の代表たる屋敷が京都にある。それを通して各藩(各地域)に京都の名産品が流れる仕組みを重視したのです。幕末から明治への転換は、分散型社会から集中型社会への決定的な転換点でした。
京都がその名産品を通じて、全国への文化の発信地となったわけです。
訳を続けてご覧下さい。また原文と比べてお読み下さい。

その一例を挙げれば、諸侯の留守居役所を京都に置かせ、呉服処・衣紋処を置いて留守居役所と取引をさせたのは、諸侯が衣服・什器・日用品などを京都で買い求める為の方策である。これら様々な物品が、京都名産として諸地方で人気を博し、全国がそれを注目するようになったのも、専売特許を与え保護したからである。これを取ってみても、京都が工業美術品の盛衰を以てその商売の盛衰に及ぶこと、つまり京都が工業美術の土地であることは疑いようがない。それを考えるならば、京都の将来繁栄維持の観点からも、工業美術の発展が最も必要であり、かつまた急務であると言わざるを得ない。
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天皇が東京に移られて、京都の衰退が始まった

徳川治世の京都の繁栄を上のように分析した北垣は、更に続けて京都の現状を分析します。工商二業という言葉は現代では異様に響きますが、ついこの二十年前までの江戸時代では、士農工商という身分が制定されていたわけで、市民(町人)は商人か工人かに分けられていたのですね。商業を重んじるか工業を重んじるかは、市民にとって、また市民に寄り添う正直な政治家にとって、欠くべからざる視点だったと思われます。それを頭に置いてお読み下さい。

そうは考えても、時勢の変遷は激しく、徳川氏の政略を学んでも空しいだけだ。天子が東京に奠都なされて、京都旧来の慣習はそれと共に一変し、工商二業の動きも他地方との競争に圧迫され、それに従って衰退の兆候を現し始めたのだから、その旧態に戻すかまたは新規に方策を考え出すしか、二業の隆盛を謀る方法はない。そうは言っても天皇がお移りになって、官僚達、公家、その他京都の繁栄の元となったものすべてが東京に移り、また諸侯の土地すべてが東京に帰属し(廃藩置県)、このように工商の利となっていたものすべてが消えてしまった以上、復旧という策は全く考えられない。
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簡単に言えば、京都の工芸美術の高品位の元になった天皇の存在、そしてそれを全国に広める仕組みであった地域社会、そのどちらもが東京を中心とした明治政府によって壊されてしまった以上、旧態に戻ることは全く考えられないという訳です。北垣に依頼した伊藤・松方に代表される明治体制にとって究極の反体制の視点であり、また京都にとっては絶望的な状況であるとも言えます。
このように北垣は工業美術で京都を復興させるしかないことと、旧態に戻すことは出来ないのだから、新規に考案を起こすしかないと、考えを巡らせていくわけですが、その先はまたのお楽しみと言うことに致しましょう。次回は琵琶湖疏水へと北垣の考えが進展していきます。

まとめ

21世紀の今、世界中で地域自然エネルギー産業革命が求められています。ゼロエミッションシティです。その先駆けとなった事業が琵琶湖疏水です。北垣国道が立案し実行に移した琵琶湖疏水成立の経緯を、北垣が記した日記で見ていきます。初回である今回は、北垣の日記の中で、一番良く経緯がまとめられている部分の冒頭を紹介しました。伊藤博文と松方正義に強く要請された北垣は、衰退する京都の復興案に取りかかります。

えねるぎぃっ亭南駄老でした。

次の記事に続きます。
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