哲学出来る哲学の道を歩きました

哲学の道

哲学の道は京都観光の定番となって久しいところがあります。京大の哲学者西田幾多郎が好んだ散歩道としてこの名があります。私が学生であった50年前は、西田が好んで散歩した面影が残り、静かな小径でした。
今年はコロナ渦のおかげで、曜日と時間を選べばその静けさが戻っています。12月に入ったとあるウィークデイの夕方、洛北の疏水沿いから哲学の道に入って、終盤を迎えつつある紅葉を堪能することが出来ました。いつものように自転車で。気に入った場所で止め、写真を撮ります。

洛北の疏水沿いの紅葉ーここは普段から観光客は来ない
哲学の道に入りました。
哲学の道からの夕日は僕のお気に入りの一つ

現代は時代の分水嶺であると思います。中世から近代への分水嶺は17世紀初頭に訪れました。それから400年経過しました。現代という時代は、西欧近代の延長にあることは、世界史を俯瞰してみるとき、常識の部類に入ると思います。
近代哲学の祖はデカルトであると高校で教わります。「方法叙説」でデカルトは近代哲学の端緒を与えたと考えられます。「我思う、故に我有り」のフレーズで有名ですが、この原文は「コギト・エルゴ・スム」であることも、比較的良く知られていると思います。ラテン語です。デカルトはフランス人ですが、フランス語で方法叙説を出版したのではありません。その当時「文化大革命」がヨーロッパで起きており、自国語で出版することが大きな流れとなっていました。ルターの宗教改革で、聖書を一般人に開放するために、聖書のドイツ語訳が出て以来、そのような流れが大きくなりました。ダンテが神曲をラテン語ではなくイタリア語で書いて以来の、自国語重視運動です。イギリスではシェークスピアが出て、イギリスの国民文化の流れを作りました。スペインのセルヴァンテス、ポルトガルのカモンイスしかりです。
私は過去10年間サイエンスカフェを開いて多くの人に科学にまつわる話をし、その後討論を楽しむことをやってきました。中にはこういう人もいました。我思う、故に我有りは、フランス語でこう言うのだよと教えてくれ、「何故皆コギト・エルゴ・スムにこだわるのだろう。フランス語で言えば良いじゃないの」と。
なるほどごもっともなのですが、やはり「思う」ではなく、コギトじゃなければならないと、原文(もちろん私はラテン語もフランス語も出来ませんから、日本語訳)を読めば想像できます。デカルトは長い間思考を重ねて、それまで学んできたすべての知識を疑います。そしてある晩急にひらめくのです。「このようにすべてを疑い考える私という存在は疑いない存在である」と。単に「思う」ではなく、「疑い考える」私という存在は疑いようがない、という訳です。デカルトの第一原理ですね。こうして疑い考えることができる存在として、人の一人である「我」が浮かび上がるわけですが、考える「個」を重視する近代哲学の祖と言われるわけが解るような気がします。

西田は第一原理を純粋経験に取ります。善の研究は第一編純粋経験から第四編宗教という構成になっていますが、第一編の第一章も純粋経験と題され、次の文章で始まります。「経験するというのは事実其儘に知るの意である。」
考える私ではなく、「事実そのままに知る」ことを第一原理に取ったわけです。その後の説明を読みますと、ここの「知る」は「感じる」に直したほうが良いのではと思いますが、考える個を第一に持ってくるよりも「感覚?」を持ってくるほうが、日本人の感覚としてよく分るのではないでしょうか? 近代を越えた西田の試みが、まさに必要とされる時代に入ったと考えています。
そんなあれこれを考えながら、「哲学」にふけり、哲学の道を歩いてきました。

えねるぎぃっ亭南駄老でした。

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