北垣はついに琵琶湖疏水のアイデアに思い至る

琵琶湖疏水を企画実行に移した北垣国道の日記を元に、琵琶湖疏水がどのような背景で計画され、またどのように考え出され、実行に移されたか、北垣本人から教えてもらいます。
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北垣は国内だけではなく、海外への輸出も視野に入れます

伊藤博文・松方正義の依頼を受けて、北垣国道は京都の復興の道筋を考え始めました。そして京都は工業・美術の町であり、商業の町ではないと考えました。そして徳川政権で何故京都が栄えたかを考えます。それは千年の間天皇がおられた町であることを利用して質の高い工業・美術製品を作り出したこと、藩という地域分散型社会であった日本の、各藩の藩邸が京都にあって積極的に各藩が京都の品を購入する仕組みが徳川氏によって整備されていたこと、の二点が徳川政権下の京都が栄えた理由であると結論づけたのです。その二つとも明治政府によって崩されてしまった。工業・美術で生きる京都は、新しい方策を考え出さなければならないと北垣の思考は続きます。それを原文を見ながら確認して下さい。

原文を見ながら確認しましょう

原文-3

訳を続けましょう。上の原文を参考にしながらお読み下さい。

北垣は機械を使わなければと考えます。そして水力の必要性に気がつきます。

更に言えば、工業製作の発達を計画しても、さらに将来へと続く新しい道を見つけなければ、この千年の旧都が、永遠に維持できる結果にはならないことは、知者の意見を待たなくても明らかだろう。将来に渡って京都の工業が盛んになるためには、国内だけの需要に満足してはダメで、年を追って欧米の需要を満たし、輸出の増加を図り、さらには国内他地域との競争に打ち勝つ策が必要となる。
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気宇壮大な北垣の発想は、海外をも視野に入れます。この当時諸外国は先生でした。新しいものは輸入するというのが常識でした。ここでは出てきませんが、疏水工事に当たっても北垣はできる限りの国産を心がけます。またここの文でも解るように、北垣の視点は今現在という短いスパンではなく、千年の古都が永久に栄えるようにという、非常に長いスパンの発想でした。今で言えば持続的な発展ということになるでしょう。

訳を続けます。
我が国の製品が諸外国の信用を得ないのは、品質が荒く、品位が不揃いで、また多数の注文に応じることが出来ないからである。この弊害を改めるには、機械の作用で品質を向上させ、多数の注文に応じても質がそろっているようにし、それによって外人の満足度を高めると同時に、日本各地の同業者に打ち勝つようしなければならない。その機械の作用を利用するには、水火という二つの方法しかない。火を使うか、石炭は決して安価ではない。故に火を使えば、他地域との競合において不利が生じる。機械を水で動かす、水力に拠るべきであることが、これで解るだろう。
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火と水の対比

火と水の対比は現代的な意味を持ちます。火は当時石炭でした。一方水は水力です。この対比は化石燃料と自然エネルギーの対比に結びつきます。北垣は石炭は高いと言って排斥します。今では石炭は安いですから、単純な論法では火を選ぶと思うでしょう。しかしすでに見たように、北垣の真意は千年の古都に永続的な繁栄の基礎を築くことにあったのです。永続的な繁栄の基盤としては、石炭はふさわしくないということが、今では明らかになっています。また化石燃料は有限ですから、長期的には石炭は高価なものにつきます。刹那的な現代の風潮に、疑問を投げかける北垣の発想ではないでしょうか?
ここには書いてありませんが、石炭は環境に悪い(今の言葉で言えば)ことは、北垣が起草した琵琶湖疏水起工趣意書には明言してあります。

続けます。

北垣は琵琶湖疏水に思い至ります

原文を見ながら解説をします

原文4

これまで読み解いたように、北垣は水力で機械を動かすことが京都の復興と永続的な繁栄の土台となることを結論しました。

原文の解釈

続けましょう。
京都の繁栄には工業を盛んにする必要がある。工業を盛んにするには、機械の力を借りなければいけない。機械の力を借りるには、水力が必要だ。そこで桂川はもちろん、鴨川・高野川・宇治川などの水を利用したらどうかと、百方測量探究したけれども、どれ一つふさわしい川はなかった。最後に琵琶湖の水を疎通させることを考え、概算してると、これがピッタリと目的を達成することを発見した。
琵琶湖の水面と三条大橋の畔の高低差はおよそ百四十尺ある。琵琶湖の水を疎通して、東山山麓に高く取り、百尺以上の落差をつけて落とせば、水車に適した天然の適度と言うべきだろう。またこの疎水工事を成就すれば、工業水車だけではなく、運輸の便については大津・京都・伏見・大阪の船の道を確保して、運賃を下げるだろうし、千二百町歩余りの畑を灌漑し、水田と出来るだろう。また飲用水や下水の改良にも使えるだろうし、防火用水・空気の乾燥を防ぐなど、実に様々な利用法があるだろう。
このように京都の復興には琵琶湖疏水だと気がついたが、いかんせん琵琶湖疏水工事のような大工事は我が国においては未曾有の大工事である。
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松方正義が大賛成します

琵琶湖疏水を思いついた北垣は、その未曾有の大工事に悩み、中央政府と相談すべく東京に行きます。その様子を見てみましょう。

原文を見ながら解釈します

原文-5

前代未聞の大工事であるから、腹案の描きようもなかった。そこで同じ年の6月、概測図と概略の調書をもって東京に出張し、伊藤参議と松方内務卿の二人に内申し、その意見を聞いた。
伊藤参議は、その案は全く当を得たものだけれども、我が国では未曾有の大工事であるから、完成させるのは難しいであろう、しかし京都の末永い発展を考えるなら、それしか方策はないのだろなぁ、というご意見だった。
一方松方内務卿はこの案に賛成され、またこの案に代わる案はないとも明言された。そして我が国では未曾有の大工事であるが、欧米諸国ではこれに匹敵する大工事は少なくない。また我が国においても、福島県の安積疏水は故大久保内務卿(利通)の計画により、伊藤(博文)内務卿がこれを引き継ぎ、私が更に引き継いで、後に農商務省に引き渡している。すでに第一期工事を終了し、疏水式を行うに当たって臨席して欲しいという要請を受けている。近日出席する予定にしているが、君どうかね一緒に来ては。その工事を見学すれば腹案も出来るのではないだろうか、ということだった。国道大いに勇気づけられ、7月松方内務卿に従って福島県に同行、逐一工事を点検した。

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志士たちの思い

伊藤と松方の反応の仕方が面白いですね。二人とも千年の古都京都が衰退するのを見るに忍びないという気持ちで北垣にくれぐれもと依頼したのですね。恐らく明治維新胎動の地京都に愛着を持っていたのでしょう。北垣が徳川時代の京都繁栄の理由の一つと考えた諸藩の留守居役所-藩邸-は維新のゆりかごになりました。北垣も農民ながら独立した志士でしたから、京都には愛着があったでしょう。それを壊す方策を他ならぬ自分たちが取っていたと突きつけられ、それしか方策がないほど、手は打てないんだと悟ったのが伊藤、そして希望を与える松方、その後の行動から解る北垣の類い希な実行力と政治力、そして衰退の危機に陥った京都市民の千年の底力。琵琶湖疏水工事実行を巡る壮大なドラマが展開されます。

こうして未曾有の大工事の計画は少しずつ動き始めます。明治前期の偉大な事業を、当事者自身の言葉で読むことが出来る北垣国道日記「塵海」。続きをお楽しみに。

えねるぎぃっ亭南駄老でした。

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