粽(ちまき)

端午の節句

今日6月25日(2020)年は、中国では粽(ちまき)を食べる日だといいます。日本では5月5日ですが、端午の節句は旧暦ですので、今日は旧暦での5月5日という訳です。中国では公式にはもちろん世界標準の暦を使っていますが、節句は太陰暦を使います。
今回のコロナ禍でも、春節で、つまり旧暦での正月で、人の往来が非常に大きくなる時期を考えに入れないと、中国での感染爆発、そして中国政府の対応を理解することが出来ません。
粽を端午の節句に食べるようになった訳は中国の故事にあります。日本にも昔から非常に大きな影響を与えた古代中国での話です。小国家が乱立した春秋時代から、徐々に七大国に絞られた戦国時代、そしてその中で秦が徐々に覇者の様相を帯びてきたとき、黄河領域の秦に対抗する国の一つの、長江に面する楚の国に、屈原(くつげん)という人がおりました。
屈原は楚の王家に繋がる血筋として生まれ、大変愛国心が強く、また非常に政治的にも鋭い目を持った人でした。そのために、楚王に大変重用されましたが、周りの嫉妬をかい、今でいうフェイクニュースが飛び交い、屈原は段々王から疎まれるようになります。そして最後には国の将来に絶望し、汨羅(べきら)という長江の支流に入水自殺をしてしまいます。
人々は徳が高かった屈原を慕って、亡くなった後も屈原を慰めるために粽を造り、汨羅にまいて屈原の霊を慰める習慣が生まれ、そして男の子の健やかな成長を願い、端午の節句に粽を食べる習慣が出来ました。日本では端午の節句に粽を食べる風習は少なくなりましたが、本家の中国ではまだ強く残っているそうです。

楚辞、離騒

屈原は司馬遷の史記にも描かれています。史記に描かれた人物は数多い中、屈原が現代まで特に残っている理由を考えて見ましょう。
まず屈原は偉大な詩人でもありました。中国の文化の中でも、詩は古来より日本に強く影響を与えた素材でもあります。中国の長い歴史の中で、時代に即して詩は発展して来ました。そして詩集として底本が残っていくことになります。
最初の詩集は詩経として残っています。これは春秋時代に作成され、伝承によると編纂したのは孔子ということです。これが中国の豊かな詩文化の源流です。そのあとしばらくまとまった詩集は残されていません。
次の詩集が楚辞(そじ)という作品です。これは主として屈原が作った詩からなり、弟子達の作品も入っていると考えられているようです。楚辞すなわち楚の辞です。何のこっちゃ。
楚辞の最初に置かれるのが離騒(りそう)です。これは間違いなく屈原自身の作であると考えられます。彼自身の物語を詩で表現していますから。これは詩とは言いながら長い自分史です。
自分の誇るべき血筋の生まれから、高い志、志を元にした彼の活動、それが王に段々疎んぜられること、周囲の人間の志の低さ、それによる数々の挫折を連綿として歌い、そして徐々に死に対してあこがれていく。それが見事な韻を踏み(私には解りませんが)、絢爛たる文体とも相まって、今でも中国では高校生程度でも、その素晴らしさを皆知っているそうです。
それにしても長い詩です。四行を単位としてそれが100近く続きます。日本でも歌謡曲や演歌は四行程度が基本となっており、それが三番まで続くことが多いわけですが、離騒はそれが100番まで続いているみたいなものです。後の楊貴妃を題材とした白居易の長恨歌も長いですが、離騒には及びません。
離騒から始まる楚辞は、招魂を持って終わります。汨羅に身を投じた屈原を慰めるための鎮魂歌でしょう。しかしその雄大さ絢爛さは、字句を追うだけでも解ります。そしてこれも長い・・。「帰来帰来」「帰り来よ、帰りこよ」と繰り返し現れるフレーズの後、絢爛たる一句で締められる曲が、延々と続きます。死後の世界を酒、美人、楽曲、舞踏が慰め、高鳴った気分を「江南哀し」と〆、長大な楚辞が締めくくられます。

朝寝坊 五月雨に酔ふ 庭木かな(南駄老)

何故屈原は現代に生きているのか

屈原の話を調べ、そして楚辞を読むとき、何故屈原が今に至るまで愛されているのかを考えざるを得ません。そして一つ思い当たります。困難な時代を誇り高く生き抜いた一人の人間として、永遠に輝いているからだと。
屈原の時代はまさに時代が大きく変わろうとしたときでした。現代の中国は恐ろしく巨大で統一された国です。中国の国土はEU全体より広いのです。そして中国は統一と分裂を繰り返してきた国でもあります。

屈原の時代は、中国の最初の統一直前の時代だった

半ば伝説の夏殷周時代の後、はっきりした記録は春秋時代から中国の歴史が始まります。記録に残された伝説の夏殷周時代は、理想化された統一時代でした。賢王のもと優秀な臣下達がそれを支えたと考えられました。
周王朝が衰退し、春秋時代に入ります。春秋時代の中国では、分裂した多くの国が、それぞれの地方文化を持って栄えていました。そして中国の古典文化が花咲きます。孔子や老子、孫子や墨子など、多彩な人材が活躍します。しっかりした記録に残る中国の最初は分裂国家だったのです。
秦になって始めて中国は統一国家になります。統一は中国が昔から持っている強いパッションです。その起源の一つが、夏殷周伝説でしょう。伝説に拠れば、昔は賢い政治が行われ、中国は統一国家であったと。その意味で理想的な統一国家を目指すことは、屈原の時代にも特に知識人にはあり、それが実現する直前の不安と期待が共にあったことでしょう。
ですが屈原にとって政治家の質の悪さにはガマンが出来ませんでした。流れが統一へと急速に変化する中、それまでの時代の流れに安穏として乗っただけの、また新しい時代にふさわしい理念を持てぬ政治家達。
おそらく時代が大きく変わるとき、新しい時代に向けて政治家の理念も手法も、また主として語りかける相手も違ってきます。正直な政治家として、屈原はそれに立ち向かいます。そして時の政治家達が、時代の変わり目を全く理解しない、暗愚な小者達ばかりであると気付きます。
時代の大きな変わり目ー屈原の場合は分裂国家から統一国家ーにあることの自覚、そしてそれを意識できない王とその取り巻き達。統一国家を作るなら、もちろん楚を中心としたいと屈原は思ったでしょう。ところが王とその取り巻き達は秦にすり寄ろうとします。統一国家になることを、誰も予想できなかった証です。
屈原の誇りに満ちた高い志と希望、それに対して時代の流れを読めない人ばかりしか見いだせない深い悲しみ。いつの世にもあり得ることかも知れませんが、時代の大きな変わり目を目前にした今の世に、まさに通じるような悲劇と真の希望の体現者として、屈原は今の世によみがえります。

えねるぎぃっ亭南駄老でした。離騒と招魂を読み解こうと努力しつつ。

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