オーストリアの古都グラーツ

ハプスブルク家ゆかりの町

グラーツはオーストリア第二の都会です。とは言っても人口は25万人ほど。ウィーンから列車で南に約二時間半で到着します。途中の景色が素晴らしく、アルプスの裾野を悠然と駆け抜ける様、何度見ても見飽きません。
神聖ローマ帝国の時代から、グラーツはハプスブルク家ゆかりの町でした。神聖ローマ帝国は、現代日本人にはわかりにくい存在ですが、中世から近代へと移行するヨーロッパ史を理解するにはなくてはならぬ存在です。帝国ですから皇帝がいるのですが、日本の天皇や中国の昔の皇帝とは違って、神聖ローマ帝国の皇帝は選挙で選ばれます。選挙と言っても一般の民衆が関与するのではなく、選帝侯という一握りの君主達-選帝侯は世襲制です-だけが、選挙権を持っていたのですが。
途中から皇帝を排出したファミリーが、ハプスブルク家で、これは第一次世界大戦に至るまで、皇位を保ち続けていました。オーストリアの都ウィーンは、何よりも音楽の都として知られ、19世紀にはモーツァルト、ベートーベン、ブラームスなどが活躍した町ですが、そのころのウィーンは、ナポレオンによって広大だった神聖ローマ帝国が滅ぼされた後、縮小して出来たオーストリア-ハンガリー帝国の首都として、やはりハプスブルク家によって支配されていたのです。
そのハプスブルク家ゆかりの都市としてグラーツは歴史を重ねてきました。町の中心部には、ルネッサンス風、ゴシック風、アールヌーボー風の建物が建ち並び、歩行者天国となっています。また市の中心部(旧市街)と後述するエッゲンベルク城は世界遺産に登録されています。

>>オーストリア観光局によるグラーツの案内はこちら

中心街

世界遺産です。グラーツ駅からLRTに乗って中心街に向かい、ムール川を渡ればすぐ中央広場(ハウプトプラッツ)。中央広場の真ん前には壮麗な市庁舎。広場とそれに続くヘレンガッセ(紳士の小径)は典型的なトランジットモールで、人々がゆったり散歩したり、またオープンエアで食事を楽しんだり。道の両側にはおしゃれなショップがずらりと並び、そこここには路地で更に町中へと繋がって、奥にもたくさんのお店があります。市庁舎のすぐ横には武器庫博物館が有り、騎士達の鎧がずらりと並んだ様は見物です。
中央広場は岡に続き、岡に登る道はスポルガッセ。ここも歩行者天国でおしゃれな店が並び、すぐ出会う三叉路を右に入れば、ホーフガッセ。ホーフガッセを歩くとすぐパン屋さんがありますが、何と創業1569年。後に述べるケプラーもこのパン屋さんのパンを食べていたでしょう。

創業1569年のパン屋さん。掲げられた紋章は双頭の鷲。ハプスブルク家御用達。

皇帝フェルディナンド二世とその霊廟

ホーフガッセを更に辿ると、グラーツの大聖堂とその横にひときわ目立つ建物があります。皇帝フェルディナンド二世の霊廟で、中には皇帝がそのお后と並んで眠っています。ヨーロッパの昔からの習わしで、偉人達の亡骸は棺に安置され、棺を覆って石造りの人形が亡き人の眠りをそのまま模っておいてあります。フェルディナンド二世は歴史に残る皇帝で、えっと驚く関係でその周りに有名人や大阪城とも関わりを持つ、大変興味深い人物です。ご紹介していきましょう。

ヨーロッパの戦国時代-三十年戦争

高校で世界史を習った人は、三十年戦争というのを習ったでしょう。これは日本の戦国時代に匹敵する、中世という時代を脱皮し、新しい時代が胎動する産みの苦しみとも言える出来事でした。戦国の世は苦しい時代ではあったでしょうが、信玄、謙信、信長、秀吉、家康、光秀、など様々な個性が運命と対決し、様々なドラマを生んだように、三十年戦争でも様々な個性溢れる人間模様が、広いヨーロッパを舞台に繰り広げられました。その多彩な登場人物のうちの3人の、主要な舞台となったのがグラーツです。
その3人とは、霊廟の主フェルディナント二世、それから後に紹介するエッゲンベルク、それにケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラーです。
戦国時代が終焉し、日本史では近世と呼ばれる時代に変わったように、三十年戦争の終焉時に締結されたウェストファリア条約は、近代主権国家を確立し、西欧近代の土台を社会的に作り上げました。その意味で世界史的にも重要な時代でした。その三十年戦争開始時の、カトリック側の主人公がフェルディナント二世です。手元にある三十年戦争の研究書「ドイツ三十年戦争」C.ヴェロニカ・ウェッジウッド著の巻末についている三十年戦争主要人名録によれば

Ferdinand Ⅱ.皇帝。グラーツ生まれ。ジュスイット(イエズス会)の教育を受ける。始めシュタイヤーマルク大公、次いでボヘミア・ハンガリー王(1617)、皇帝(1619)となる。ボヘミア人が嫌って、ファルツ選帝侯を国王に選んだことから、三十年戦争が勃発した。ヴァレンシュタインを登用して、戦局をリードしたが、リュッツェンの戦後、後事を息子のフェルディナント三世に託して、没した。ハプスブルク帝国の実質上の創始者。

「ドイツ三十年戦争」C.ヴェロニカ・ウェッジウッド著、瀬原義生訳、刀水書房(2003)

ここにあるように、フェルディナント二世の後は、息子のフェルディナント三世が、二世と同様の経歴を積み皇帝へと、さらにその後実質世襲制に変わります。何代か後の直系が女帝マリア・テレジア、そしてその娘はフランス革命悲劇のヒロイン、マリー・アントワネットです。
またフェルディナント二世の腹心の臣下がエッゲンベルクで、グラーツ郊外にあるエッゲンベルク城(世界遺産)を建てた人物、このエッゲンベルク城で今世紀になって発見された一大宝物が大阪屏風です。
>>エッゲンベルク城の大阪屏風(オーストリア観光局)

エッゲンベルク城は、上述のようにフェルディナント二世の腹心であるエッゲンベルクが建てたのですが、建物には一つの壮大なコンセプトがありました。それは宇宙を表すというコンセプトでした。
四つの塔は四季を表します。十二の門は一年の月、365の窓が一年の日を表します。そして豪華で様々な色彩の部屋の中で、最も広く豪華な部屋は惑星の間と呼ばれ、ギリシャ神話上の七人の神が天井画に描かれています。
何故これが惑星の間と呼ばれていたのか、現代の目から見ると不思議でしょう。
これを理解するには、まず曜日を思い出して下さい。月、火、水、木、金、土、日ですね。七曜日あります。実はこれが英語のPlanet(惑星)で、天動説に於ける惑星がこれに当たります。空に輝く月、火星、水星、・・太陽です。天動説ではこれら天体はすべて宇宙の中心である地球を廻っていました。そしてすべてギリシャ神話上の神でもありました。太陽神アポロ、戦の神であるマルス(火星)、美の女神ヴィーナス(金星)など。そして重要なのは一週間はキリスト教では、天地創造の日数でした。神は六日をかけて天地創造をし、最後の七日目に休息されたのです。
エッゲンベルクの宇宙を表す意図は、同じ時代グラーツに住んでいた一人の人物の意図を思い出させます。それはヨハネス・ケプラーです。ケプラーはその一生をかけて、神がお作りになった宇宙を理解したいと活動を続けた人です。

ヨハネス・ケプラーはこの町でキャリアを始めます。

ケプラーの法則で有名なヨハネス・ケプラーは、グラーツの新教系高校の数学教師としてそのキャリアを始めました。同時代のイタリア人ガリレオに比べても、ケプラーについては日本では余り良く知られていませんが、ガリレオ以上にドラマティックな生涯を送った人で、またその悲運で劇的な人生の間に、中世からの町を転々と渡り歩いた人ですが、そのゆかりの町はすべて美しく、そのうちの3都市が世界遺産に指定されています。その世界遺産の一つがここグラーツです。

上の標識はグラーツの町の中央部にある建物につけられた標識ですが、おおまかに言えば次のように書かれています。
ここでヨハネス・ケプラー(1571-1639)は、1594-1599の間、数学教授として新教系高校で教えていた。彼はグラーツで最初の著作「宇宙の神秘」を表した。1600年彼はグラーツでの反宗教改革によって追われ、プラハの皇帝ルドルフ二世の庇護を受け、そこでティコ・ブラーエの協同研究者、後継者となる。

ケプラーはグラーツで彼のキャリアを始めます。ネットで見れば、彼はグラーツ大学で教えていたと書いている人もいるのですが、それは間違いで、グラーツ大学はその当時すでに創立されていたものの、カトリック系の大学でした。ケプラーは貧乏学生ながら、新教系の大学テュービンゲン大学で教育を受け、新教の牧師を目標として勉強したので、カトリック大学に就職させてもらうことはあり得なかったのです。グラーツ大学は現在に至る有名大学で、今はもちろん宗教とは関係なく、私もしばらくそこで研究していたことがあります。
この標識に書かれているように、ケプラーは最初の著述である「宇宙の神秘」をグラーツで書きます。そこでの主張は現代から見れば笑いものに過ぎないのですが、逆に言うとその当時の人の考え方がよく解るもので、ケプラーとその後の時代に、如何に西欧の人達の考え方が変わってきたのか、非常によく分る書物になっています。それについては、別の記事でご紹介したいと思いますが、時代の変わり目には如何に大きく常識が変わっていくかを目の当たりにすることが出来る事例となっています。ケプラーのことを、ある有名な科学伝記作家が「中世と近代の分水嶺を、まるで夢遊病者のように越えてしまった男」と評論していますが、時代は中世と近代の分水嶺にさしかかっていたのです。現代は西欧近代と未来社会への分水嶺にあると考えられますが、そう考えると現代的にもその重要性がよく分るでしょう。
カトリックの大学がすでにあるのに、新教系の高校が町の中心部にあったことは、グラーツにも多くの新教信者がいたことになります。公立の高校です。公的に給料をもらっていた今でいうと公務員ですが、先に述べたフェルディナントがシュタイヤーマルク大公(グラーツを含む地域をシュタイヤーマルクという)の時に、公職から新教徒を追放するというので、その政策の結果追放された一人がケプラーだったわけです。当時の神聖ローマ帝国皇帝はルドルフ二世(この人もハプスブルク家です)で、首都はプラハにありました。フェルディナント二世の二代前の皇帝です。そこでルドルフの庇護を受け、ティコの膨大なデータを手に入れたケプラーは、それを根気よく解析し、ケプラーの法則に到達します。そしてそれを使って半世紀後、ニュートンが万有引力の法則を発見し、現代に続く科学の時代の幕を開けたのです。さまざまな歴史の源流がここにあるといえるグラーツの町ではないでしょうか?

えねるぎぃっ亭南駄老でした。話は続きます。

>>続き 歴史の分水嶺を越えるときへ行く

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