嘘

だまされるのが悪いと考える文化

本日のテーマは嘘についてです。
昔ある政治家の言葉で非常に有名になった言葉があります。「私は絶対に嘘は申しません」と言った政治家がいました。高度経済成長を牽引した池田勇人氏の言葉です。これを揶揄して、大学生時代次のような話を教授から聞いたものです。
その教授に習って池田氏の発言とは逆に「私は絶対に嘘しか言いません」という発言は論理的にあり得るか、という問題を考えましょう。
この発言は論理的にあり得ません。もしその人が絶対に嘘しか言わないのなら、文としてこの文章は正しいわけですが、絶対に嘘しか言わない彼の口からは、嘘としてつまりこの文を否定して「私は絶対に嘘は言いません」という言葉が出てこなければならない、という訳です。
この理屈解ります? つまり池田氏の発言は「自分の発言は常に嘘である」と言っているかも知れないもので、意味が無いという訳です。
私は高校生のとき友人と「この言葉が嘘かも知れないじゃないか」などと言って笑っていましたが、大学のときこの説明を教授から聞いて、「さすがに大学教授はすごいな」と妙に感心したものでした。
まあ政治家なら嘘を言うでしょう。でも嘘も様々な嘘があります。

日本の親は嘘をつくなと教えるが、嘘にだまされるなと教える文化もある

グローバリズムの時代です。色んな国の人とつきあわなければなりません。色んな国はそれぞれの文化があります。その違いが嘘に対する向き合い方に現れます。
日本では「嘘をつくのが悪い」という文化です。嘘をつく人がいて、一方でその嘘にだまされる人がいて、嘘は始めて成立します。嘘を避けるには、どちらの方法もあり得るのです。多くの人が嘘をつかないなら「嘘をつくのが悪い」が通用するでしょう。でも嘘をつく人が多い場合「嘘にだまされるな」と考えなければ、社会が崩壊します。閉じた社会では「嘘をつく」ことは信用を落とすことになるので、親は「嘘をつくな」と教えます。しかし多文化にもまれた文化では「嘘にだまされるな」と教える文化もあり得ることを認識すべきでしょう。

小保方さんは論文をねつ造したことでバッシングを受けました

小保方さんの事件は多くの人にとって記憶に新しいでしょう。論文をねつ造したということで、大問題になりました。学術論文ですから嘘は許されません。そこは科学者の個人的な良心に基本的には頼る事しか出来ません。しかし若く野心を持った科学者の卵は、それを充分に持っているとは限りません。したがって論文に入りうるねつ造を避ける仕組みが、一流の学術誌にはあります。それは査読という方法です。査読の仕組みは後の文章の理解に必要となりますから、少し面倒でもお付き合い下さい。
論文が出版されるまでの流れを説明します。研究者なり研究集団なりが、一つのテーマについて一連の研究をし、研究成果が発表するにふさわしい段階に至ったとします。これが最初の段階です。
次の段階ではこの研究者(集団)が、論文を書き上げ、その分野の専門の論文が多く掲載されるジャーナルに投稿します。これが第二段階です。ジャーナルには編集委員会が設置されており、編集委員会がその投稿論文の専門分野を特定します。そしてその分野の専門家(投稿集団とは独立している)に、投稿論文を送り出版に値するかの判断を仰ぎます。これを査読と言います。そして査読の結果出版する価値が科学的にあると判断されたら、それで晴れて出版となります。

しかし小保方さんの例でも解るように、査読は難しい面もあります。特に新しい主題に対しては査読は難しくなります。その研究が新しいチャレンジングなものであるほど、査読は難しくなります。
新しいチャレンジングなものは、当然多くの研究者が競争することが多いでしょう。追試の研究は査読では通常難しいので行われません。査読者は追試の実験なり計算をする義務までは負わないのです。何故なら査読はその分野で権威を持った人のボランティアで成り立っていますから。査読者は論文の記述が、その査読者の研究分野の常識から考えて、信用できそうかどうかという観点から、論文掲載の可否を判断します。
追試をしてその論文が正しいか否かを判断するのは、必要なら他の研究者(集団)にゆだねられます。またこの追試の研究も、追試をした研究者(グループ)の論文となり得ます。最初の研究ではないから価値は劣ることになりますが。しかし他の研究者が追試をして論文の結論を否定されたら、最初の論文を書いた研究者(集団)の評価を極度に落とすことになります。野心的な研究はそれだけリスクもあるのです。

私の経験談

小保方さんはかわいそうなほどバッシングを受けました。今どのように過ごされているか? だますのが悪いという文化の中での、おそらくは若気の結果の「論文ねつ造」だったのかとも思います。
一方明らかに意図的な論文ねつ造も、めったにないことでしょうがあり得ます。私がたまたま知った論文ねつ造をご紹介しましょう。
私の最初の科学的研究はある原子核反応を、基礎方程式に従ってきちんと解くことによって、複雑な多くの実験を説明できることを示したことでした。私の計算が(その頃の最大級のコンピューターを使います)出来るまで、その計算をすれば様々な実験をおそらくは説明できるだろうとその分野の国際的な学会でも考えられていました。その計算を実行することは、それなりの野心的なことでした。
その計算をしたおかげで、皆がやっぱりそうか、研究を次の段階に進めることが出来ると、色んな人から喜ばれました。それも世界各国から。そこで次の年の夏、オーストリアのグラーツという町で開かれた、その分野の国際会議に出席し、下手な英語で発表するということになりました。それがなければ、私のキャリアは全く違ったものになっていたでしょう。
その会議に出席する前、あるジャーナルを読んでいて、気になる論文を見つけました。何と私の計算が出る以前に、私が世界初の計算だと思った計算が、あるエジプト人の著者が実行したと報告していたのです。つまりそれによると私の計算は世界二番目のものであり、それだけ価値が下がってしまうことになります。
それでもその論文は速報というものでしたから気にはなっていたものの致命的だとは思われませんでした。どういうことかと言えば、研究者は速報という形で、まず業界一番乗りを宣言します。そして本論文をじっくりと書き、その信頼性を疑う余地がないよう高め、確実に自分の業績にするのです。そのエジプト人の速報は、あくまで速報であり、実際に多彩な実験すべてを説明するものではありませんでした。すでに発表されている一部の実験データを、私がやったと同じ理論計算で、きれいに再現しているカーブを示しただけだったのです。

グラーツ郊外のエッゲンベルク城

ねつ造の常習犯


グラーツでの発表を何とか終え、親睦会がありました。そこでびっくりすることが起きました。何と目の前にその著者がいたのです。お互いワインを飲みながら。そこで私は「え、おまえがあの**か。すまんかった。おまえの論文引用しなかった。読んでなかったんで。」と謝りました。先行する論文はきちんと引用すること、というのは論文を書くための礼儀として教わります。もちろんねつ造しないようにとも学生レベルでは教えますが、きちんとした学術論文レベルでは言わずもがなのことです。
しかしその著者の態度は平然としたものでした。怒りもせず計算の苦労を話すこともなく。まさに紳士然として。
私は唖然としました。同じような計算をしたもの同士、計算の苦労話は楽しみの一つです。その結果当然のことながら新しいアイデアも生まれます。協同研究も進むかも知れません。紳士ではなく同業者として、熱意を共有したかったのです。そのために国際会議があるのです。
しかし何と言うこと、彼は意識的な論文ねつ造者だったのです。実験をきれいに再現したカーブを、全くフリーハンドで、きれいになぞっていたのです。もちろん彼の口からそうは聞きませんでしたが、話しているうちにそれしかありえないと解りました。どうして速報記事として専門のジャーナルに掲載されたかは、査読の仕組みでおわかりと思います。査読は専門家の常識で納得できればOKを出すのです。意図的にねつ造すれば査読は通る可能性があるのです。まさにだまされるのが悪いという発想をねつ造者は持ったわけです。
その後も彼とは何回も同じ系統の国際会議で会いました。しかし彼は発表をすることもなくただ出席していただけでした。しかしエジプトの有名大学の教授として収まっていました。ねつ造した論文を業績として認めさせ、教授に収まっていたのでしょう。ここでもだまされるのが悪いという発想が彼を教授に押し上げたのです。
大学の国際評価は当然落ちますが、評価が落ちるのはだまされるのが悪いという、嘘を防ぐための考え方を大学が十分発揮していなかった責任なのです。一方国際学会仲間では笑い話になっていきました。学生が勝手にカーブを描こうとすると”Don't **ise."要するに彼の名前はねつ造の代名詞になっていたのです。
彼はしかしその後も論文ねつ造を続けました。彼を教授にした大学の手前もあったのかも知れません。あるいは大学も共犯者になっていたのかも知れません。少なくともメンツを保つ意味で。
しかし究極は論文を書き続けないと教授の資格自体を怪しまれることを恐れたのでしょう。世界中を探せば我々の分野の人間が投稿できるジャーナルはいくつもありますが、彼の名前を検索すれば、あるジャーナルに掲載されたらしばらく続けて彼の別の論文の掲載が続きます。そしてあるときぱたっと掲載がそのジャーナルで途絶えます。編集者がおかしいと気がつけば、査読者も丁寧に調べます。そして掲載が止まります。そしてしばらくすると、別のジャーナルに彼の名前が頻繁に出てきます。まるでモグラたたきのように。まさに嘘が嘘を呼ぶの典型的な展開でした。

後日談


日本にもジャーナルがあります。彼はそこにも投稿してきました。そしてそのジャーナルの編集会議は私に査読を依頼してきました。私は一目見てまたねつ造だと思いました。そこで「この論文は興味あるが、これこれこの部分で細部の記述が弱い。そこの細部をきちんと書かなければ、OKを与えることは出来ない」。
査読者は論文をきちんと書く為の指導をする権利(義務?)があるのです。そして通常は著者はその指摘に答えます。実際にその研究を行ない、その論文を是非出版したいと思えば。また一方著者は査読者を変えてくれと要求する権利を持ちます。正当な理由を述べて。そしてもしそのような要求が出されたら、編集会議が責任を持ってそのジャーナルの信頼性を保つための決定をします。論文を掲載するか、それとも他の査読者を探すか。しかし修正校が送られてくることはなく、彼が彼の論文を再びそのジャーナルに投稿することもありませんでした。
彼は孤独だったと思います。通常論文の数が増えると協同研究を必ず行います。同業者が彼を信頼できる同業者と見なしたら、当然相互の能力を高めるために共同作業を行おうと思うだろうし、若手が先輩として仰ぎ、指導者として協同の論文を書いてくれと頼んでくるでしょう。エジプト一流の有名大学の教授になっても、彼が単名の論文をねつ造し続けなければなければならなかったこと、それが嘘をついた最大の報いだったでしょう。彼にとって最終的な成果は何もなかったのです。
今彼が何をしているか私は知りません。彼とはほとんど何も話したことがなかったのですが、ああだまされるのが悪い、という文化もあり得るのだなと身にしみて感じた経験でした。

政治家の嘘の質の悪さは時代の終わりの目印

社会は政治によって強く影響されます。どういった社会を作りたいのか、政治家はそれを訴え、そしてその社会実現を目指します。その方向性が確たるものであれば、そしてその方向性を有権者の多くが共有できるものであれば、その社会実現のため必要な嘘も政治家には許されるでしょう。池田氏の言葉が例え嘘であっても、高度成長というビジョンは、彼があるいは彼が信頼する企画者が意図し、そして彼によって実行されたことで、彼は戦後の偉大な政治家の一人として業績が残ります。
グローバルの時代は明らかに異文化がどんどん日本に入ってくる時代を意味します。だまされるのが悪いという文化も入ってくるのです。グローバル化が特に進んでいる東京は、なお一層嘘にだまされるのが悪いという意識を持たなければいけません。その覚悟を東京の人達は持っているでしょうか? 
新規感染者が緊急事態宣言解除後も、全国では考えられないレベルで、遅くまで残っているのをどう受け止めているのでしょうか? 東京が一番進んでいると、どこかで時代遅れの意識を持ち続けていませんか? 時代遅れの意識、それは質のわるい嘘を受け入れる隙を見せているようなものです。どうかお気をつけ下さい。

えねるぎぃっ亭南駄老でした。

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