歴史の分水嶺を越える時

ウィーン南駅

ウィーン南駅(Wien, suedbahnhof)という駅がかつてありました。私が初めて海外に出た42年前のことです。初めての海外は、オーストリアのグラーツで開かれた物理学のある分野の、国際会議に出席するためでした。
グラーツにウィーンから列車で行くとき、ウィーン南駅から列車に乗りました。そのころは東西冷戦の時代、西ドイツを列車で走っても、東ドイツとの国境を伝うときは、長く張り巡らされた鉄条網が間近に見えました。
ドイツやスウェーデンなどからも、オーストリアに国際列車で乗換え無しに行けるのは新鮮な驚きでした。その場合南駅ではなく西駅に着きます。西駅は西ヨーロッパに繋がり、古都の風格を保ちながらも、国際色豊かな華やいだ駅です。それに対して南駅は、東ヨーロッパ諸国への直通列車が一日に一本ずつ発着するにせよ、東欧の貧しさを反映して、西駅に比べて見劣りがする駅でした。南駅から出発する列車の数で一番多いのが、オーストリア第二の都市グラーツ行きの列車でした。

ウィーン・ハウプトバーンホフ(ウィーン中央駅)

グーグルマップでウィーンを散策すれば、ウィーン南駅はウィーン中央駅(ハウプトバーンホフ)と改名されています。ハウプトバーンホフは、ドイツ語圏の都市に通常はある鉄道駅で、ハウプトというのは「主たる」という意味、バーンホフは駅のドイツ語です。私が始めてウィーンを訪れたときには、ウィーンにハウプトバーンホフがなかったのです。ウィーン南駅がウィーンハウプトバーンホフと改名されたと知ったとき、改めてオーストリアの歴史の重みを感じた気がしました。
20世紀が終わろうとするとき、ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が取り壊され、東欧諸国の共産党独裁が雪崩を打って崩れました。そして徐々にヨーロッパはEUへと再編され国境もなくなり、通貨もユーロに統一されました。東西の壁をなくしてみると、ウィーンの位置が違って見えます。ドイツの主要都市で一番ウィーンに近いミュンヘンが恐らく直線距離にして300kmはあるのに対し、ウィーンを中心として半径200~300kmの位置に、北西にはチェコのプラハ、北東にはポーランドのクラコフ、南東にはハンガリーのブダペスト、南にはクロアチアのザグレブなどが位置しているのです。ウィーンからはこれら中東欧諸国が、西欧諸国よりも近いのです。一時的なものに過ぎなかった東西の壁を取り外すと、これら中東欧諸国に繋がる南駅の為に、ウィーン中央駅の名を取っておいたのかなとも想像されます。ちょうど統一ドイツの首都をベルリンだと考え、西ドイツの首都を仮にボンに置いただけとしたドイツの人々と同じように、歴史を長い目で見る習慣をオーストリアも持っていたのだと思います。ヨーロッパの人は近視眼ではない。つくづくそう思います。

センメリンク鉄道

42年前、ウィーン南駅とグラーツを結ぶ列車に乗って以来、私は何度もこの鉄道に乗りました。そのたびに心躍る思いをします。最後に乗ったのは15年ほど前でしょうか。まだ南駅は中央駅と名を変えてはいなかったように思いますが、気がつかなかったか、今となっては単に記憶違いだけかも知れません。
この路線はセンメリンク鉄道と呼ばれ、ヨーロッパの有名な鉄道路線の一つです。19世紀に各国に鉄道が引かれたとき、この鉄道も引かれました。アルプスを越えた最初の鉄道でした。その後アルプス越えはもっと厳しい条件で何本も引かれましたが、この鉄道が引かれた当時はトンネルの掘削技術もそれほど発達してはいません。そのため長いトンネルは避けられています。
長いトンネルが当然となっている日本の鉄道に乗り慣れた身には、逆にセンメリンク鉄道の、車窓からの情景は新鮮なものに映ります。短いトンネルを次々と抜けながら、長い列車が峰に添ってくねくねと走ります。そのたびにのどかなアルプス山麓の村の光景と、その中を曲がりながら走る美しい列車が絵のように浮かびます。ゆったりとした旅のほうが楽しい、そう感じさせるセンメリンク鉄道です。

グラーツ

グラーツに着いても、ゆっくりとした旅は続きます。町中からは自動車が出来るだけ排除されています。自動車道路には自動車が溢れているので、自動車社会ではあるのですが。
>>グラーツについての記事はこちら

駅からは路面電車が便利です。これは42年前から変わりませんが、ごく最近路面電車が駅の地下に入るよう駅が改造されたようです。昔は地上を走っていましたし、最後に15年ほど前に行ったときもそうだったと記憶します。でもgoogle mapでみると地下になっていますし、最近書かれたブログを見てもそうなっています。
42年前から全く変わらないこと、それは中心街から自動車が排除されていること。ハウプトプラッツ(中央広場)からヤコミニ広場までの中心通り-ヘレンガッセ-には42年前から自動車が走っていた記憶がありません。もっと後になってLRTが日本でも注目を浴び、またトランジットモールも世界中で広まる前から、ヘレンガッセはトランジットモールだったような気がします。古いヨーロッパの町では、昔から人と自動車の共存が意識されていたのだなと改めて思います。そのための面白い工夫もあります。中心街ではLRTはただなのです。つまり中央街では、買い物客は自動車を使わなくても良い工夫があるのですね。
町を貫きムール川が南へと流れています。流速はちょうど鴨川と同じくらいでしょうか? 流量は通常の鴨川の半分くらい。アルプスの雪解け水です

分水嶺を越えたセンメリンク鉄道

ムール川が南に流れることから、センメリンク鉄道が、アルプスの分水嶺を越えてきたことが解ります。ウィーンは良く知られたようにドナウ河畔にあります。ドナウはアルプスを南に見ながら東へと流れる大河です。つまりウィーンの南にアルプスがあります。それに対して水源たるアルプスを北に見て、ムール川は南へと流れるのです。センメリンク鉄道はアルプスの北と南を結ぶ鉄道だと実感できます。

中世と近代の分水嶺を越えた人-ケプラー

有名な科学史家から、中世と近代の分水嶺を夢遊病者のように越えた人と評論された人物がいます。ヨハネス・ケプラーです。彼が最初の著作をグラーツで書いたことは、別の記事でご紹介しました。この著作はまさしく中世の産物でした。

ケプラーの最初の宇宙模型 ワイル・デル・シュタット ケプラー博物館蔵

上の図を見て下さい。何を表しているか解りますか? これを見ただけで何であるか解る人は素晴らしい。ヨーロッパ中世の常識を持っている人かも知れません。
説明を聞いて笑う人はいるでしょうが、なるほどとうなずく人は現代では皆無でしょう。実はこれはケプラーが考えた宇宙モデルなのです。そして彼はこの模型が、地動説(太陽中心説)の正しさを証明したと、彼の最初の著作「宇宙の神秘」で考えたのです。

信じられないほど非常識な中世の常識

図では同心球が見えますが、このそれぞれが惑星の天球を表します。
中世の天文学者達の間では、天球という概念は必須のものでした。天体は天球に張り付いていて、天球が回転するから、天体が回転して見えるというのが常識でした。何と馬鹿げた常識と思うかも知れません。しかし昔の人、科学を知らない人達には、天体が毎日同じ運動を続けるのは不思議で神秘的なものだったでしょう。そこでヨーロッパの古代に、プトレマイオスが当時の天文学の集大成をしたのが、日本語では天動説、より正しく訳せば、地球中心説です。
地球中心説では、宇宙の中心に地球がありました。そして宇宙の一番外側には、恒星の天球がありました。この天球にたくさんの恒星が張り付き、天球が一日かけて一回転するから、夜に見える星は北極星を中心として星座は形を変えず動くのだと考えていました。そして恒星以外の天体-これは七つあって回転の速さは違うものの-も、やはりそれぞれの天球を持ち、天球が廻ることによって、張り付いた天体は規則正しく永久に運動を続けると考えていました。恒星以外の七つの天体(太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星)をPlanet(惑星)と呼んでいたことは、すでに別記事で紹介したとおりです。
コペルニクスが地球中心説に異を唱え、太陽中心説を提唱しました。いわゆる地動説です。岩波文庫などでは「天体の回転について」と訳されていますが、正しくは「天球の回転について」となります。中心に太陽があり、一番外側には恒星の天球がある。そして惑星として水星、金星、地球、火星、木星、土星の六天体がある。つまり惑星は地球中心説の七個から六個に変わりました。太陽の周りを回る地球を、更に廻る月は、惑星とは種類が異なる天体であることになります。,

ケプラーの生涯をかけた意図は、神が造りたもうた宇宙は、完全であり、したがって数学的にも美しいものである、その数学的な答えを知りたいということでした。
テュービンゲン大学で天文学を習ったケプラーは(天文学は大学の共通したリベラルアーツの1科目だった)、コペルニクス学説を知ります。それに魅了されたケプラーは、その正しさを証明しようと考えます。

ケプラーは惑星の数が何故六個なのかにこだわります。「宇宙の神秘」の中で、研究の動機として、惑星の個数が何故六個なのか疑問に思ったことを強調しているのです。
何故六個にこだわったか、それこそ現代人が不思議に思うことです。何しろ惑星はその後天王星、海王星と見つかったのですから。しかし肉眼で見える惑星-したがって昔から知られていた惑星は六個でした。そしてその当時の常識では、天界では何も新しい現象は現れないというものでした。何と間違った常識にとらわれていたか!
何故六個であることを問題にしたのか、私はグラーツ郊外にあるエッゲンベルク城を訪れたとき納得できたと思いました。地球中心説(天動説)の七個は、創世記の七日に対応するが故に、天文学的あるいは神学的に、納得できる数だったのです。彼がコペルニクス説を支持しようと思えば、六個である理由を説明しなければなりませんでした。

ケプラーは惑星の数が六個である理由を示す

もう一度上の図を見て下さい。同心球がいくつか見えますが、一つ一つの球が惑星の天球ですから、この同心球が六個でなくてはならないことを示せば、惑星の数が六個と言えるわけです。そこで同心球以外の構成物を見てみましょう。一番外の球とその内側の球の間にあるのが、正六面体(立方体)です。そして更に内側に正四面体(すべての面が合同な正三角形で出来た三角錐)が見えます。つまりこの「宇宙模型」は球と正多面体で出来た三次元立体です。
球と正多面体(正四面体など)は、ちょうどすっぽりと、次々に入れ子状態で接して入っています。正多面体は正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の五種類であるのは、正多面体を中学校で習った人は思い出すことが出来るでしょう。五種類の正多面体に次々と球が接しており、一番内側と一番外側が球である構造を造れば、上の立体ができあがります。この一つ一つの球に惑星を貼り付けると、惑星の数は六個になります。かれはこれで惑星の数が六個である証明が出来たと考えたのです。何という非常識と皆が思うでしょう。ところが同時代人はそう思わなかったのです。

ガリレオを始め多くの天文学者が賛辞を浴びせる

「宇宙の神秘」を書き上げたケプラーは得意の絶頂でした。コペルニクス説の正しさを数学的に示したのです。ガリレオの異端審問よりずっと前のことです。ケプラーは著名な天文学者(含ガリレオ)に著作を進呈しました。ガリレオは丁寧なお礼の言葉にそえて、自分も太陽中心説(地動説)の正しさを信じているが、それを公表する勇気がないという言葉を添えています。後にケプラーは当時最大の天文学者ティコ・ブラーエの元に助手として行きますが、ティコもこの著作を読んで興味を持っていたと言います。
つまりこの宇宙模型は、常識外れどころか、当時の常識から考えると、非常に興味ある、おそらくは新しい研究成果で将来も正しいと考えられる模型だったのです。

ケプラーのこの宇宙模型は、グラーツ郊外にあるエッゲンベルク城のコンセプトを思い起こさせます。皇帝フェルディナント二世の腹心だったハンス・ウルリッヒ・フォン・エッゲンベルクは、宇宙をコンセプトにエッゲンベルク城を建てました。全く同時代の同じ都市グラーツを舞台として。
不思議な符合ですが、ケプラーとエッゲンベルクは更なる共通点があるのです。それは二人とも同じドイツのテュービンゲン大学、それも同じエヴァンゲリッシェス・シュティフトを出ているのです。エヴァンゲリッシェス・シュティフトを解りやすく言えば、ルター派の神学部といえば良いでしょうか? ケプラーはこの大学でメストリンという天文学者にコペルニクス学説を紹介されて天文学に興味を持ったのです。エッゲンベルクも同じ教授から習ったことも充分考えられます。
エッゲンベルクはこの大学からも解るように、新教徒として貴族としてのキャリアを始めます。後にカトリックに改宗し、フェルディナントの腹心となるのですが。ひょっとして、エッゲンベルクはエッゲンベルク城を築いたとき、フェルディナントからグラーツを追い出されたケプラーを思い出していたのかも知れません。

ケプラーの法則の新しさ

上記の宇宙モデルを元に、ケプラーはその正しさを更に証明したいと考えます。彼の宇宙モデルは立体図形です。したがって幾何学の法則が成り立ちます。特に惑星軌道の大きさの間の比が決定します。それを計算すると偶然なことにコペルニクスが与えていた惑星の軌道半径の大きさの比に大体一致します。
ただし軌道半径の比は微妙に食い違っています。そこでケプラーはもっと正確なデータが必要だと考えました。当時正確な惑星のデータを持っていたのはティコ・ブラーエでした。ティコはデンマークの貴族でしたが、若い頃から熱心に天体観測を続け、正確なデータにするために、六分儀や四分儀という、角度を測る巨大分度器みたいなものを製作し、それを大人数の弟子達を使って、毎日きちんとデータを観測していました。彼の測定の正確さを認識するには、新宿と池袋とで北極星の高さを測るだけで、その違いを見つけることが出来るほどだったことが解っています。
ケプラーはグラーツを追われますが、その結果ティコと会うことが出来、ティコのデータを研究に使えるようになります。そして彼はティコのグループのうち一番困難な役を受け持ちます。それは火星の軌道を計算することでした。そして彼は火星軌道が円ではなく、楕円であるということを発見するのです。後にニュートンが万有引力の法則導出に使ったので、後世にもその重要性が残り、ケプラーの法則として呼ばれるようになりました。

グラーツの市立公園にあるケプラー像の前のケプラーの法則記念盤(第二法則)

楕円軌道は、その頃の常識から考えて、恐ろしく非常識なものだった

楕円軌道は天球という考えと相容れません。ケプラー自身は生涯天球の範囲内で楕円軌道を考えようという希望を捨てなかったようですが。
天球という常識を覆す法則に対して、興味深いことにガリレオの反応が伝わっています。ガリレオは楕円軌道という考えを嫌い、おぞましいといって簡単に否定しただけで全く受け入れなかった、あるいは無視したそうです。
ただ星の位置を知る必要がある人々がいました。航海家達です。技術が乏しかった当時は、星の位置は遠洋航海に欠くことが出来ない技術でした。ケプラー自身が皇帝ルドルフ二世の命によって作成したルドルフ表は、その正確さが認められるようになり、半世紀後のニュートンの時代は楕円軌道が科学者の間の常識になっていました。常識と非常識が完全にひっくり返ったのです。
ガリレオと共にケプラーが土台を築いたニュートン物理学は、近代という時代を打ち立てる金字塔になりました。その時代を夢中でケプラーは駆け抜けたのです。中世から近代への分水嶺を、まるで夢遊病者のように駆け抜けたのがケプラーでした。

ケプラーの後輩達

時代の変わり目には悲劇が起きがちです。ヨーロッパでは三十年戦争という悲劇が拡大しました。ケプラーはその犠牲者の一人です。ケプラーの出発点は明らかに中世の考え方でした。そして夢中で考え続けるうちに、近代の扉を大きく開いた巨人の一人になりました。その舞台であるグラーツ、プラハ、リンツ、レーゲンスブルク、そしてケプラーが学んだマウルブロン修道院、テュービンゲン大学は、中世からの歴史を残し現代に生きる、歴史と個性ある中小都市として、未来へ向かって輝き続けています。
上に記したケプラーゆかりの都市のうち、マウルブロン修道院、グラーツ、そしてプラハはユネスコ世界遺産に登録されています。
マウルブロン修道院からテュービンゲン大学エヴァンゲリッシェス・シュティフトは、その後名門コースとして地方の伝統校となります。19世紀初頭詩人ヘルダーリンは、ケプラーが歩んだ同じコースを辿ります。そのヘルダーリンのエヴァンゲリッシェス・シュティフトでの三人組が、彼とヘーゲル、そしてシェリングの二人の哲学者でした。三人はフランス革命の報に青春の血をたぎらせて熱心に議論を戦わせていたそうです。かつてケプラーが学んだ場所は、まさに近代が完全に確立する場の一つになったのです。
ドイツでは大学教授になるには博士論文だけではなれません。教授資格論文を自力で書き上げ、一人で研究をし遂げる能力を示さなければなりません。ヘーゲルの教授資格論文はケプラーについてでした。「惑星軌道論」というタイトルで、日本語にも訳されています。ヘーゲルはそこでニュートンについて「数学を整備しただけだ」とし、ケプラーこそが物理学的に、哲学的に惑星軌道を考えたのだと賞賛しています。

その後ケプラー、ヘルダーリンの後を辿りながら、挫折の経験をし、大きく羽ばたく人物も現れました。ヘルマン・ヘッセです。少年期のヘッセは、マウルブロン修道院の高校に村一番の秀才として入学しましたが、余りに厳格なプロイセン方式の教育に合わず、退学してしまいます。その経験を描いた作品が車輪の下です。このように歴史の大きな分水嶺を乗り越え、ケプラーは時代の舞台を大きく切り拓きました。

近代(現代)から未来への分水嶺を楽しんで乗り越えよう

中世から近代への分水嶺は高い険しい分水嶺でした。非常識が常識へ、常識が非常識へと、劇的に変わりました。意識の面からすると、近代はそのまま決定的な分水嶺はないまま現代へと進んだかのようです。
逆に近代から現代への時代進行は、西欧近代文明にとって大きな追い風となりました。アメリカという新しい大陸を、西欧近代は利用することが出来ました。西欧近代の帰結として産業革命が起こりましたが、数億年の地球の歴史が蓄えた、化石燃料を使うことが出来ました。
しかし最早新しい大陸は存在せず、また有限な化石燃料がその有限性を全世界の人々に否応なく露呈する前に、化石燃料文化は様々な局面で環境破壊をすることが明らかになりました。コロナはその一例です。また台風激化もその一例に過ぎません。
このように現代の先には、またもや高い分水嶺が見えてきました。現代の基本的常識が、そのまま未来の常識ではあり得ない、そのような気配が濃厚になってきました。今日安倍総裁の後任として菅総裁が選ばれました。まるで雪崩を打つかのように菅さんに票が集まりました。安倍政治の流れからの離脱を恐れたのでしょう。日本中に恐れが蔓延しています。恐れはしかし時代が変わる恐れであるようです。
コロナで大都市集中の弊害が皆に見えました。コロナ渦の最中には、皆余計な恐れを抱きたくないのでしょう。元に戻りたい、そのような心理がいたるところで働いているようです。
しかしコロナ渦の後には、決して元には戻りません。それを覚悟して、次の時代を考えるべきでしょう。時代は変わらなければならないのですから。越えるべき歴史の分水嶺が厳然としてそびえているのです。
化石燃料時代は終わり、自然エネルギー時代になる。これは我々が常に主張している未来の常識です。ところが現代の常識はこれと真逆であるかのようです。化石燃料はまだまだあるから心配ない、とか化石燃料の代わりは科学の進歩で見つかるとか。五百年後、まるで天球みたいに「何て非常識な考えを持っていたんだろう、全く信じられない」となるでしょう。五百年前西洋では天球を疑う人はいませんでした
化石燃料が有限で、その後自然エネルギー時代に入ります。現在社会特に現代日本と、自然エネルギーに支えられる社会のギャップは、気が遠くなるほど大きいと思えます。何故なら現代日本を自然エネルギーで支えることは不可能だからです。分水嶺は高くて険しく見えます。
ここで思い出すのはセンメリンク鉄道の分水嶺の越え方です。峰に添ってくねくねと曲がりながら、無理をせず景色を楽しむうちにいつの間にか分水嶺を越えていきます。まるでケプラーやフェルディナント二世それにエッゲンベルク達が教えてくれているようです。我々は多大な犠牲を払って中世から近代への分水嶺を乗り越えた。この鉄道の分水嶺の越え方を見習って、次の分水嶺を楽しみながら越えて欲しい、と。無理をせず自然に。
そのためには必要な第一歩を踏み出さなくてはなりません。それは行きすぎた大都市集中を終焉させ、豊かな地方を各地で作り出すこと、グラーツを見習って、豊かな地方都市を数多く造り出すこと、それが第一歩となります。

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